55年前の東京オリンピック(五輪)に出場した道産子レジェンドが、2020年の後進たちにエールをおくった。

64年に日本女子初のフェンシング五輪代表になった下野芳枝さん(82)は、現在も現役指導者として母校・札幌大谷含め、若手選手の育成に励む。当時は北海道から東京に出て、複数の大学に出稽古しながら技を磨いたが、五輪では1勝もできなかった。世界との差を感じた自身の経験を踏まえ、2度目の東京五輪に思いをはせた。

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64年10月10日、旧国立競技場で入場行進した光景を、下野さんは82歳になった今でも忘れない。「ハトが飛んで花火が盛大に鳴らされてね。これがオリンピックかって。その中に私がいるなんて、本当に恵まれているなあって」。日本女子が初参加したフェンシング競技は、早大記念会堂で実施された。団体戦予選リーグのソ連、ドイツ戦に出場。勝利はつかめなかったが、日本女子フェンシング界のパイオニアとなった。

55年の月日がたった。「私はね、生きている間に、また東京でオリンピックをやるような予感がしていたの。もう選手としては無理だけど、北海道から五輪に出る選手がいたら絶対に見に行きたい。今度は応援団長でね。私の声ってすごく大きいでしょ。どこからだって届くんだから。この声で後押ししたい」。孫のような世代の教え子たちに「ママさん」と呼ばれ、ひときわ張りのある声でカツを入れる。その情熱は、かつて北海道からたった1人で戦いを挑んだときから、変わっていない。

高校2年で競技を始め、最初の大会で優勝した。54年北海道国体を控えており、道外から強化選手が集まった大会だった。「協会の人に『強いね!』って言われて、その気になっちゃった」。高校卒業後は、「スポーツ選手は体が土台」と、東京に出て栄養専門学校に通いながら練習。当時フェンシング界をけん引していた中大、早大、日体大などに出稽古し、技を磨いた。どこにでも飛び込める勇気は、夢切符を引き寄せる一助となった。

64年4月、大学以外で活動している有望選手を集めていた専大に、26歳で入学した。6月の五輪最終選考会前の練習で右股関節、左大腿(だいたい)部と続けて筋肉を部分断裂したが、あきらめなかった。「親から『代表にならないと家に入れない』と言われてましたから」。不退転の覚悟で、北海道からただ1人の代表になった。

東京五輪を最後に引退し、謹也さん(88)と結婚。夫と母校指導を40年続け、90年には高校総体女王も育てた。「私がオリンピックに出た時は、世界と差があったけど、今はメダルを取れるぐらいの選手がいる。今度はメダルを取る瞬間を、この目で見て来たいですね」。次代のオリンピアン育成に励みながら、2度目の東京五輪を思い描いた。【永野高輔】

◆下野芳枝(しもの・よしえ)旧姓小森。1937年(昭12)5月10日、札幌市生まれ。札幌大谷高2年で競技を始める。東京にある栄養専門学校を経て64年に専大に進む。同年東京五輪代表。同五輪後に専大を中退し65年、同じフェンシング選手だった下野謹也さん(88)と結婚。79年から夫とともに、母校札幌大谷の指導に携わっている。

○…下野さんと夫謹也さんは、フェンシング界で有名な“おしどり指導者”として知られている。謹也さんも東京五輪を目指していたが、選考会途中で左アキレス腱(けん)を断裂し断念。結婚を約束していた下野さんのサポート役にまわり、五輪出場を助けた。下野さんは「夫は怒ったところを見たところがないぐらい優しい。はっきり厳しく言う私を、うまくフォローしてもらってます」と感謝した。