京都成章の湯浅泰正監督(56)は敗戦の心境を問われると、申し訳なさそうに笑った。「あかんかもしれませんが、満足してるんです。(家に)帰って、悔しさが出てきてからです」。選手の出来には「ほんとによう頑張ってくれました」と繰り返した。

生粋の“ラグビーバカ”ではない。そもそも「ラグビー部監督」でなく「部活の顧問をする先生」になりたかった。教師でバスケットボール部顧問だった父の姿が原点。「楽しそうでしてね。教え子が家に遊びに来たりして」。中学までバスケットボール部で、亀岡高でラグビーを始めたのも、友人に誘われ、練習を見学したのがきっかけだ。

次第に“ラグビーバカ”になった。亀岡-琉球大の経歴はラガーとしてはマイナーだ。京都成章に赴任1年目はバスケットボール部顧問、2年目からラグビー部監督になった。指導法を探るため、ビデオ持参で長野・菅平の高校日本代表合宿へ。当時の八幡工監督で、後に大学選手権9連覇の偉業をなす帝京大・岩出雅之監督と知り合い、京都から滋賀まで合同練習に日参した。一方、御所実の竹田寛行監督らと親交を深め、指導者の腕を上げた。

2歳上の姉さん女房・悦子夫人に「今でもよう注意されます。『ラグビーうまい子ばっかり気にしたらあかんで。寂しい子、おるで』と」。凝り性でハマると周囲が見えなくなる。だが、それは情熱の裏返しだ。13年10月15日、扁桃(へんとう)がんのリンパ節転移の手術を受けた。医師に「ステージ4」を宣告され「ステージって何段階ありますの?」と聞き「4が一番上です」と言われ、絶句した。その大病を乗り越え、部員に愛情を注いできた。

「病気して“待ってやること”ができるようになったかな。僕はせっかちで、すぐ答えを言うたり、手を差し伸べてしまう。今は(全部員)123人の子全員のペースに合わせてやれるようになったかも」。

監督34年目で初めて踏んだ花園決勝の舞台。選手をいつも「子どもたち」と呼ぶ“湯浅先生”はうれしそうだった。

◆湯浅泰正(ゆあさ・やすまさ)1964年(昭39)3月18日、京都生まれ。中学までバスケットボール部で、ラグビーは亀岡高1年から。ポジションはSO、WTB。琉球大教育学部で教員免許を取得、卒業して京都成章に赴任。座右の銘は「継続は力なり」。家族は妻、1男2女。