阪神で強打の野手として活躍し、監督を2度務めた後藤次男(ごとう・つぐお)氏が5月30日午後10時30分、老衰のため兵庫県西宮市の病院で死去した。92歳だった。熊本県出身。近親者で密葬が営まれた。

 阪神掛布雅之2軍監督(61)も後藤氏の訃報に肩を落とした。今も悔やむのはプロ5年目の78年。後藤氏が2度目の監督を務めた時のことだ。「最下位で非常に迷惑をかけてしまったという印象しかないんですよ。どうしようもなく監督を引き受けた形だったので…。後藤さんに何もしてあげられなかった…という思いが強くてね」。3番掛布は初の30本塁打超えで奮闘。だが投打がかみ合わず、球団初の最下位に沈んだ。

 その年のオールスターで3打席連続弾を打った。後藤監督は「こんな時期によく頑張ってくれたな」と、甲子園練習で声をかけてくれたという。「それがすごく印象に残っています。何も言わない、怒らない、優しい監督でした。でもその裏側にある後藤さんのすごさを感じる時があった。戦力が整ったらものすごい力を発揮したんじゃないかな」。

 最後に会ったのは後藤氏が90歳になった14年11月のOB会。「杉下茂さんと出てきてくれてね」。だがどうしても、現役時代の後悔が一番先に立つという。「(負けても)全く表情も変えずに同じ形でやり続けられた。もっと笑顔で野球をやらせないといけない監督でした。感謝はしていますがご迷惑をかけました」。

 後藤監督が退任したそのオフ、田淵幸一が西武にトレードされ掛布の4番道が始まった。後藤さんを退陣させてしまった無念、そしていつかは恩返しの思いが力になった。後藤さんが熱望していた和製大砲育成を天国から見守ってもらい、吉報を届ける。