社会面を担当していた数年の間に、心ならずも名誉毀損(きそん)訴訟の当事者になってしまったことが何度かあった。取材を重ね、正しいと判断して報じたことでも、報じられた側が事実誤認と主張したり、実際にそうである可能性がゼロとは言い切れない。

 裁判所では、取材の段階で事実と判断するだけの理由があったか否かの「真実相当性」で争うことになるのだが、取材上の「真実」は必ずしも法律上の「真実」とはならない。1%でもそうではない可能性があれば誤報の判定を受ける場合もある。

 理論立てて証明するのは根気のいる作業である。取材メモを読み返し、関連する公的資料や他媒体の記事を集めて…当たり前のように進めた取材でも、改めて検証してみると、そこにはいくつかの落とし穴があり、冷や汗をかいたこともあった。ひょっとしたら、取材対象にとんでもない迷惑をかけたのかもしれないという罪の意識が頭をよぎったこともある。

 報じた件は、あくまで市井のネタであり、訴訟そのものに世間の耳目が集まることはなかった。当事者だけで粛々と事実確認を進めることができたのが救いだった。が、これがいったん他メディアの目にさらされると、問題は「真実」かそうでないか、では済まなくなる。取材方法に少しでも問題があれば、報じた事実よりそちらがクローズアップされ、批判の的になる。

 米映画「ニュースの真相」(8月公開)は、04年に「ブッシュ米大統領の軍歴詐称疑惑」を報じたCBSのニュース番組「60ミニッツ」を巡る実話を描いている。国政レベルの「スクープ」が称賛から非難に転じたときの悪夢のような内幕ものだ。近作「スポットライト」のように取材過程の闘いを描くのではなく、守勢に回ったメディアのサバイバル戦だ。

 大小を問わず「ネタの匂い」はアドレナリンを噴出させる。そんな前向きな闘いではなく、ひたすら後ろ向きに取材過程の「穴」の検証を強いられる過程にスポットが当たる。こんな題材が商業映画として成立するのか、と思われる方は、トム・ハンクス主演の「アポロ13」(95年)を思い出せばいい。アクシデント、失敗の穴を埋めながら、ひたすら帰還することを目指す過程には多くのドラマが生まれた。

 マイナスを出発点に懸命にゼロに戻そうとする過程を描くことは、むしろ現代的なテーマと言えるかもしれない。

 取材段階では「間違いない」と言い切っていた証言者が、他メディアの攻勢の前に自信を失っていく。証拠文書のフォントの1つに年代的な疑念が生じると、そこばかりをクローズアップされる。プロデューサーの思想信条が偏見をもたらしたのではないか、と追求される。スクープと胸を張った後に、突然足元をすくわれ、立ち位置を失った嫌な感覚がリアルに伝わる。

 プロデューサー役のケイト・ブランシェット(47)は強い女を演じさせたら逸品だが、強い女がふと見せる弱さを演じさせたらさらにうまい。ドキュメンタリータッチの映像にはまる。伝説のアンカーマン、ダン・ラザーにふんしたロバート・レッドフォード(79)の老けっぷりがリアルで、怖いほどだ。

 監督は「ゾディアック」(07年)で製作、脚本を担当したジェームス・ヴァンダービルト。この人の演出は粘り強い。達者な俳優陣がさらに1歩踏み込んで役に同化した感じがする。きれい事では終わらない現実が、まとわりつくように伝わってくる。【相原斎】