「角川映画祭」が30日から東京・角川シネマ新宿で開催される。

 70代後半から80年代にかけ「角川映画」は娯楽映画の代名詞だった。原作本とのタイアップCM「読んでから見るか、見てから読むか」は記憶に残った。

 当時、駆け出し記者だった私にとっては映画興行の生々しい裏側を垣間見る最初の機会となった。

 81年の興行ランク1位となった「セーラー服と機関銃」が「不敗神話」の始まりだったように思う。

 角川の看板女優として注目され始めた薬師丸ひろ子の前年主演作「狙われた学園」は、当時人気絶頂のたのきんトリオの「ブルージーンズメモリー」と2本立てで公開された。

 このお盆映画のヒットから配給元の東宝は、年末公開の正月興行もたのきん+薬師丸を企画する。

 シネコンがない時代。駅からの近さなど立地条件に恵まれた東宝系の劇場はライバルの松竹系や東映系より優位にあった。加えてジャニーズの人気者との組み合わせである。芸能界の常識に照らせば、この企画を断る者はいないはず、だった。

 ところが、「出版界の風雲児」として注目され、余勢を駆って映画界に乗り込んだ角川春樹角川書店社長(当時)はあっさりとこれを蹴り、薬師丸主演の「セーラー服-」を引き上げてしまう。「ひろ子はたのきんの添え物ではない」が理由だった。さまざまな条件でたのきんが主、薬師丸が従とされたこと良しとしなかったのである。薬師丸は高倉健主演の「野性の証明」でデビューしてから3年。アイドル誌のグラビア好評だったが、興行力は未知数である。大方の映画関係者はもちろん、先入観の無い新米記者の私にも無謀な行動に思えた。東宝側にも「どうぞご自由に、代わりはいくらでもありますから」の気持ちがあっただろう。

 たのきんでは、田原俊彦と近藤真彦が交互に主演を務める決まりだったので、近藤主演の前作からの流れで正月興行は田原主演の「グッドラックLOVE」。併映作は「セーラー服-」の代わりにCMやグラビアで人気のあった烏丸せつことビートたけしの顔合わせ「すっかり…その気で!」が決まった。

 角川映画は東映系に移り、アクション俳優として切れ味を見せていた真田広之主演の「燃えろ勇者」との2本立てで、対決の体裁を整えた。

 12月20日。街はすっかりクリスマス気分の中での同時公開である。私たち映画記者はその前夜、東宝が押さえた帝国ホテルで仮眠を取り、明け方から日比谷の映画街を取材する段取りになっていた。東宝としては環境を整え、早朝から映画館を取り囲む「たのきんファンの熱気」を担当記者に実感してもらおうという思惑だった。

 東映の劇場はそこからわずか200メートルくらいのところにある。当然双方を取材することになるのだが、東宝宣伝部はその辺におうようだった。

 それをいいことに前夜、夕食後にホテルを抜けだし、角川氏行きつけの銀座のバーをのぞいてみた。奥の特別個室には「セーラー服-」のメーンスタッフとキャストの顔があった。しぶる薬師丸に代わって共演の柳沢慎吾らが主題歌を歌い、少人数ながらその熱気は尋常ではなかった。

 角川氏からは「どうせこっちが負けると思っているんだろう?」と図星を指された。こちらが言葉を失うと「まあ、公開後の数字(動員数)を見てみろよ」。その自信には有無を言わせないところがあった。ひょっとしたらの思いが頭をもたげたのはそのときである。

 翌朝、双方の劇場はファンの熱気に包まれ、見た目にその差は分からなかった。が、後日、動員数が集計されると勝敗は明らかだった。「セーラー服-」は翌年の興行ランク1位となり、「グッドラック-」はベスト10から漏れた。「普通の高校生」が売りの少女がジャニーズの「超」が付く人気者を打ち負かしたのだ。

 後日、劇場控室で再び角川氏に会った。今度は薬師丸を傍らに「どうだ。ひろ子に後光が差しているのが見えるか?」と神懸かったことを言われた。再び言葉に詰まった。困ったようにも面白がっているようにも見えた薬師丸の笑顔だけが印象に残った。

 薬師丸がその後数年間「映画界のドル箱女優」となったことを思うと、角川氏の直感は確かにずばぬけて鋭かった。当時の「角川映画」にはそんな神懸かり的な勢いがあった。【相原斎】