80歳で亡くなった演出家蜷川幸雄さんが芸術監督を務める、さいたま芸術劇場に近所のおばさんが現れ、「通夜に行けないから、これを持っていってよ」と香典を差し出したという話を聞いた。

 通夜・葬儀に合わせて約3000人が弔問に訪れたが、一般ファンは700人を超えたという。著名な演出家の葬儀に何回も出たけれど、今回ほど一般ファンが多かったのは初めてだ。演出家は稽古場では王様だが、幕を開けると、舞台は俳優のものになる。しかし、蜷川さんの場合は、観客を引きつけて離さない「蜷川マジック」とも呼べる仕掛けに満ちて、蜷川さんが「主役」かと思える舞台も多かった。蜷川さんは日本で唯一、名前で観客を呼べる演出家だった。

 正直な人でもあった。生涯で180本以上の舞台を演出したが、スランプの時期があり、「経歴から消したい作品もある」と言ってはばからなかった。世界的な演出家となっても、「正当に評価されていない」と憤っていた。「世界の10大演出家の1人」と書かれたことに、「おれはトップ3と思っていた」と反発。それを実証するため、幾多の病気と闘い、身を削りながら、妥協を許さない、より高みの舞台を目指した。

 出棺の時、蜷川演出の洗礼を受けた藤原竜也、小栗旬、松坂桃李、岡田将生らがひつぎを運んだ。見守る参列者の中で、25日に初日を迎える蜷川さん最後の演出舞台「尺には尺を」に出演する多部未華子が泣きじゃくっていた。ひつぎを乗せた霊きゅう車が動きだすと、大きな拍手が起こり、長く、力強く続いた。藤原も小栗も松坂も岡田も決意を秘めた目で、手をたたいた。蜷川さんに送る、最後のカーテンコールの拍手。しばらく、「蜷川ロス」の日が続きそうだ。【林尚之】