あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。お笑いコンビ「ペナルティ」のワッキー(43)の恩師は、釧路東(現釧路幣舞)中で2年間担任だった故中島武人先生。転校続き、寝坊の常連だったワッキーを、必殺の「ひげじょり攻撃」でノックアウト。今でも続く釧路との縁を強くさせてくれた担任教師で、芸風にも影響を与えてくれた恩師との思い出を語った。

 中1の時、名古屋から釧路の学校に転校してきた。「1人だけ都会からきて、(仲間に)入っていけるだろうか」。不安な気持ちでいる中、クラス担任として出会ったのが、中島先生だった。当時で40歳ぐらいのベテランで、熱く、面白く、そして怒る時も(加減が)ちょうどいい先生でした。

 生徒をしかる時は「ひげじょり」が、お決まり。ニコニコしながら、ひげの残る顔を、生徒の顔にジョリジョリっとなすりつける。それを見てクラスのみんながゲラゲラ笑うのは、行事として楽しかった。中島先生の作る空気感で、僕たちのクラスは男女とも異常に仲が良く、今でも多くの生徒がつながっている。

 僕も何回も「ひげじょり」をされた。朝が苦手で、いつも登校はギリギリ。自宅から学校まではゆるやかな下り坂なので、冬は毎日ソリで登校した。そのまま校門に飛び込んでソリを置き、グラウンドの真ん中を走って教室を目指す。そんな僕を校舎の中からみんなが「がんばれぇ!」って応援してくれる。途中で転んで間に合わなければ、もちろん「ひげじょり」。それでもクラスは楽しかった。部活で理不尽なことがあっても、クラスがあったから気持ちが保てた。

 そういえば先生はラーメン作りを研究していた。うまいラーメンができた時は、何度か自宅のラーメンパーティーに呼んでくれた。有名店とは比べられないけど、十分にお店を出せるぐらいおいしかった。そんな中島先生には、不良の生徒たちも心を許していた。今も当時のクラスメートと仲がいいのも先生のおかげ。心から感謝しています。

 5年ほど前に、先生が亡くなられた連絡を受けた時は、仕事でうかがうこともできなかった。1回だけ僕の番組に出てもらったことがあり、その時に「おお、ワキター!」って呼んでもらったのが最後だった。

 思い返すと、生徒のいじり方、突っ込み方の絶妙な先生だった。ミスや、ボーッとしたりした生徒を、優しく突っ込んでいた。普通なら「なにミスってんだ」って言いたくなるような生徒が、自然とかわいらしく見えてくる。「この子は、こう接すればいいんだよ」と、態度で示していたのだと思う。今の僕は毒を吐いて人を傷つけるのが嫌で、ファニーな笑いが好き。それはもしかしたら、中島先生のDNAが入っているからなのかもしれない。【取材・構成 中島洋尚】

 ◆ワッキー 本名・脇田寧人(わきた・やすひと)。1972年(昭47)7月5日、釧路市出身。中学1、2年を過ごした釧路東中(現釧路幣舞中)ではサッカー部。市船橋高3年で国体優勝、全国選手権は2回戦で清水商のMF名波(現磐田監督)を抑えるもPK負け。94年に市船橋時代の先輩ヒデと「ペナルティ」を結成。全国顔はめパネル選手権名誉顧問。よしもとクリエイティブエージェンシー所属。家族は妻と1男1女。178センチ、68キロ。