とある雑誌を見ていると、「早期退職から俳優にチャレンジ」との記事があった。立派な大学を出て、一流企業に就職。部長職まで昇進したが、役員までは届かずに、若い頃に憧れていたのか俳優の世界に転身。ひと昔前までは考えられなかったが、最近ではまわりでも話を聞くようになってきた。

子供が独立し、経済的に余裕があり、これからの人生をより充実させたいのであろう。企業で、社会で、荒波にもまれたこともあり顔つきもなかなかいい。社会派ドラマのお偉いさん役で重宝されるかもしれない。演技レッスンに通い、ドラマや映画のエキストラをこなし、広告のオーディションもあるのかもしれない。起用する側から起用される側へ、最初は刺激的で新鮮な毎日だと思う。これまで接点のなかった夢を目指している若者などとも交流が増え、これで売れたりしたら最高の第2の人生に違いない。

と、甘い言葉を書きつつ、せっかくなのでリアルな話も。中年から俳優への転身、まずうまくいきません。エキストラや広告の仕事がちらほら入る可能性は十分にあるが、まともに稼げる可能性は0に近い。

理由はひとつ。キャリア(経験・経歴)の問題。もちろん演技力もあたり前に必要だが、小劇場で長年芝居をやっていて、自他ともに認める演技派でも売れない世界が芸能界。一般社会でも、ある程度の年で転職活動をするとわかるが、世の中は思いのほかドライだ。

まず聞かれるのは本人の能力よりも、どういう規模の会社で、役職は何だったのか、そしてどんなプロジェクトに携わっていて何人の部下がいたのか。どんなに能力(俳優でいう演技がうまいとか)が高くても、キャリアがないとまず採用されない。ビジネスなので当たり前といえば当たり前だが…そう考えると、50歳からの異業種への転職、約30年間その道で切磋琢磨(せっさたくま)してきた人に勝てるはずがない。

そんなこともあり、ぱっと見なんとなくできそうな俳優業だが、その道は実は相当に困難。さすがに皆さん大人なのでわかっているとは思いますが…。記事をみてふと考えてみました。

さて本題。今回紹介するのは、現在公開中の映画「総理の夫」に出演中の田中圭(37)。一般的には、遅咲きの俳優と言われている。遅咲き、まだ芽が出ていない俳優にとって活動を続けていく上で唯一の望みの言葉なのかもしれない。30歳を超えてもまだまだチャンスはある、と遅咲きの俳優を見てどこか夢をみてしまう。

実際の田中さんも、本格的にブレークしたのは19年に映画化もされたドラマ「おっさんずラブ」。30代中盤にしての当たり役。しかし、実はそこまでのキャリアがすごい。ドラマだと出演数は100本を超え、映画も50本以上。誰もがどこかで1度は見たことのある顔。名前は思い出せずとも、あの時の〇〇役ね、と頭のどこかに記憶されているはず。

一緒の作品に参加した人であればそれはさらに色濃く残り、業界内でのキャリアは着実に積算されていったであろう。なので一概に遅咲きといえども額面通りに受け取ってはいけない。はたから見たら抜てきかもしれないが、業界的にはそれほどの驚きがないケースが多い。ちなみに映画デビューとなった園子温監督の「自殺サークル」での役は“屋上にいる高校生たち”。それから約20年、良いキャリアを重ねた彼の俳優としての未来は明るい。

◆谷健二(たに・けんじ)1976年(昭51)、京都府出身。大学でデザインを専攻後、映画の世界を夢見て上京。多数の自主映画に携わる。その後、広告代理店に勤め、約9年間自動車会社のウェブマーケティングを担当。14年に映画『リュウセイ』の監督を機にフリーとなる。映画以外にもCMやドラマ、舞台演出に映画本の出版など多岐にわたって活動中。また、カレー好きが高じて青山でカレー&バーも経営。今夏には最新作「元メンに呼び出されたら、そこは異次元空間だった」が公開。

(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画監督・谷健二の俳優研究所」)