<復刻版:98年4月12日付の日刊スポーツ>

 きょうも舞台の中心に立つ。山田五十鈴(81)。デビュー68年、第一線に立ち続けてきた。決して偉ぶらない。彼女が「養子」と呼ぶ若い演劇人が周囲に集う。言葉遣いは対等だが、だれもがこの人の言葉の重みを知っている。「私には芝居しかありませんから」。あっさりとした言葉を人生そのものの重量で表現できる人は、ほかにいないだろう。

 昨年夏、危機説が流れた。カゼをこじらせ、食欲がなくなり、見る間に体重が落ちた。約3カ月熱が下がらなかった。

 「カゼをひきやすくなっていたんですよ。これも女優だから、ですよね。ちょっと熱っぽいときでも、用心して抗生物質を飲んでいましたから。お勤めの人と違ってお休みを取るわけにいきませんから。舞台に穴をあけるわけにいきませんから。普通の人に比べて薬が効かなくなっていたんですね。重症だと思われて“山田は再起不能”なんていわれました。骨折なんかだと全治3カ月とか、はっきり診断が出るでしょう。カゼはそういうわけにはいきませんから。でも、今はすごい食欲だし、元気ですよ。“ちゃんと復帰した”と書いてくださいね(笑い)」。

 東京・有楽町の芸術座楽屋を訪ねると、きさくな笑顔が待っていた。張りのある顔には、うっすらピンクに赤みがさしている。メリハリの利いた目線の動きは、いかにも舞台映えがしそうだ。目じりをかすかに下げた表情には、ホッとさせるものがある。

 3、4月公演「隠れ菊」のまっただ中である。複雑に入り組んだセリフ主体のこの舞台で、初日には共演者全員がセリフを間違えた。ただ一人完ぺきにこなしたのが五十鈴だった。昨年12月に退院してから、台本を覚えるかたわら、黙々とリハビリに取り組んできた。起床と同時に両足に1キロの砂袋をくくりつける。あおむけに寝たまま、足を上下にゆっくりと20回。公演中も1日置きに続けている。

 「芝居よりほかにやることありませんから。60年以上、自己流でやってきましたけど、いくつになっても舞台に立てるように体を動かすんです。足が弱くなったら致命的ですから。若返りたいとは思いません。だって、思ってみたってしようがないでしょ。でも、気力だけはあるから、年齢には決して負けてません。日本の女優って、60になるとあきらめちゃう人多いでしょ。もう人生おしまいみたいに言ってね。私は生きている限り、(舞台を)続けようと思います。私が生きているというのは、そういうことだから。トレーニングは生きるためなんです。あと10年以上はできるでしょうか。普通のおうちでも家族が“おばあちゃん”扱いするから、足腰だってダメになっちゃうんですよ。幸い、私には舞台がある。朝のトレーニングはたった5分だけれど、それなりにムチ打つことができるんだと思います。きっと、主婦の人だってできることなんだと思います。私、一度同年代の主婦の方とそういうお話をしてみたいと思っているんです。これまで機会がなかったものですから」。

 13歳のデビュー以来、250本の映画に出て、押しも押されもせぬ“銀幕スター”だった五十鈴が、舞台に活動の中心を移したのは終戦直後。30歳を目前にしていた。

 「外国の女優さんは、年を取っても映画に主演できるけど、当時の日本の映画界は、年を取ったら捨てられるだけでした。それが怖かった。いい映画に出させてもらってたんですけど、急に戦争でしょ。もう長続きしないと思っていろいろ考えました。でも、会社に通うのも嫌だと思ったし、ほかにつぶしが利かないんですよ。だったら女優でやれるところまで、と思って。映画がダメなら舞台、と考えたんです。戦争があって、銀座を歩く人がみんな無表情で。あんなに日本中が無気力になって。私たちの仕事も無力だったんですけどね。あの当時の日本人の姿を知っているから、相当なことがあっても驚いたりしません。今でも、若い人と話をして、私が威張れるのは戦争を知っていることだけですよ。終戦直後から舞台を始めたんですけど、うまく時流に乗れた感じでしたね。見切り時が良かったんでしょうか。当時の映画でご一緒していた方の中には、女優を辞めた方も随分いましたよ。芝居をやっていなかったらどうだったか。なんて考えてみたこともないですよ。まあ、昔なら三味線の師匠とかになったんでしょうけど」。

 舞台の話になると、心持ち目が大きく開き、ひとみが楽屋の蛍光灯に反射してキラキラする。上演中の「隠れ菊」では一代で名門料亭を築いた女主人にふんしている。冒頭15分で出番は終わるが、最後まで五十鈴の印象は消えない。おかみさん役の十朱幸代(55)と愛人役の萬田久子(39)のやり取りの随所に女主人の残した「仕掛け」が顔をのぞかせ、五十鈴の“存在感”がものをいう。結局、観客がこの舞台を振り返って真っ先に思い出すのが五十鈴の顔なのである。

 「本当に私には芝居しかありませんから。昔は朝まで飲み明かしたりもしましたけど、今は一緒に飲む人も語り明かす人もいなくて、お酒を飲む機会もなくなりましたね。でも、今の方がいいですね。快適です。無駄のない生活ですから」。

 自宅は京都にあるが、10年前から一年のほとんどを劇場に近い都内のホテルで過ごしている。身の回りのものも最小限にとどめている。「芝居」以外のすべてをそぎ落とした生活こそ理想のようだ。

 「おっかあ!」。インタビュー中に楽屋の入り口から親しみのこもった声が掛かった。俳優の市村正親(49)である。「きょう、舞台見たよ。最初(冒頭15分)だけじゃなくて、もっとおっかあの芝居見たかったなあ。僕の芝居も見に来てね。じゃあ、またね」。「うん、また感想聞かせてね。私も見に行きますよ」。実の親子のようなやり取り。ひたすらシンプルに生きる五十鈴の生活に潤いをもたらしているのが、彼女が“養子”と呼ぶ、年齢が半分ほどの舞台俳優たちとの交流だ。

 「今さらボーイフレンドなんて考えるのも面倒くさいから。私には“養子”がいっぱいいるの。それも男の子ばっかり。市村正親、榎木孝明(42)。男の子が欲しかったけれど、できなかったから。“子供たち”には、もうかったら2%出しなさい、と言ってあるんです(笑い)。男の子はみんな独特の世界観を持っていて、教えられることも少なくない。役者だけでなく、絵もかけば文章も上手なんだから。それなりに生きているからすごい。まあ、本当の子供だったら役者ひと筋に生きてほしいと思うんでしょうけど」。

 3度の結婚と1度の「自由結婚」で「恋多き女」といわれた五十鈴が、精神的な若さを保っているのは、“養子”たちとの交流があるからに違いない。

 だが、“養子”を男性に限っている理由の第一は1992年(平4)に56歳で亡くなった一人娘・嵯峨峨三智子さんへの思いがあるからのようだ。嵯峨さんが2歳の時に、父親の二枚目スター月田一郎さんと離婚。嵯峨さんは月田さんのもとで育てられた。月田さんが亡くなった後、母娘が再会したのは嵯峨さんが高校2年の時。同じ女優の道に進んだ嵯峨さんだが、「山田五十鈴の娘」というレッテルを嫌い、母親を「山田さん」と呼んだ時期もあった。それでも五十鈴は経済的援助を惜しまなかった。

 「あの子は早死にでしたからね。でも、私は一人じゃない。仕事があるから。あの子とはドライな関係でしたから。ベタベタと湿度の高い母と娘ではありませんでした。別にあれをしなさい、これをしなさいと言ったことはありませんでしたね。私には舞台があったから。お客さまがいたから。これがなければ、違う関係になっていたんでしょうけど。今、大切にしているのもやっぱり舞台ですから。娘を思い出している暇はないんですよ」。

 嵯峨さんが亡くなってからのこの6年余り、舞台に打ち込む五十鈴の原動力は、娘を思い出すその「暇」をなくすためだったのではないか。ふとのぞかせた寂しそうな表情にそんな印象を持った。

 だが、人生が商業演劇の歴史そのものに重なる彼女の歩みの中で、それはほんの一部分かもしれない。