今年も「1・17」へ向けた平松愛理さんの「KOBE MEETING」に行った。

 阪神大震災から23年。神戸の老舗ライブハウス「チキンジョージ」時代から、平松さんの歌声で「1・17」を思うのが恒例になっているが、今年の平松さんは泣いた。よく泣いた。闘病治療で休業中も欠かさなかったこの集い。平松さんは腕が上がらない中で、ピアノを弾いていたが、その時よりも泣いていた。

 「命」と「一瞬」の重み、出会いの大切さを実感したからだという。「えへへ。いっぱい泣いちゃった」。照れながら、記者の腕をつかんだ平松さんは、理由を話し始めた。

 昨春、中学、高校時代の恩師が95歳で亡くなった。歌手デビュー後も交流を続け、出産、がん闘病、離婚と苦難を乗り越えてきた平松さんの支えでもあった恩師だった。

 恩師「小林先生」は、昨年まで10年連続で会場にいた。「小林先生」は第2次大戦で、大学在学中に学徒出陣し、特攻隊員になった経験があった。

 「今でも先生の話はよく覚えています。『草野球をしていても、名前を呼ばれたら戦闘機に乗らなきゃいけない。むごいものだった』って。死地に赴く仲間を何度も見送ったからこそ、人と人との出会いは大切にしなさいって言葉、とてもとても重かった」

 その「小林先生」から、08年、シングルマザーとして娘を育てていた平松さんのもとへ手紙が届いた。

 平松さんはその手紙で、「小林先生」が10歳で両親を亡くしたことを知った。手紙には「自分は勉強で成績が良くても、運動会で賞をとっても、喜んでほめてくれるお母さんがいないから、つまらなかった」と書いてあったという。

 親戚の家で育った「小林先生」は「家族以外の多くの人たちに支えられて今がある。人と人は支え合うことが何より。だから出会いは大切にしなさい」とも繰り返していたそうだ。

 病気で不安な思いもさせた娘のため、理想の母親であろうとした平松さんにとって「すっと肩の力が抜けた」温かい手紙だった。

 この手紙をもとに出来上がった曲が「花と太陽」。大きな愛で娘を守りたい母としての心、誰かに支えられ、誰かの支えになろうとする生きざまを描いた楽曲は、毎年、神戸の集いで聴いてきたが、「小林先生」の手紙を思い、耳を傾けると、記者が手紙をもらった気持ちになった。

 「小林先生」の姿を見たことはあっても、お話ししたこともないのに…。「小林先生」の言葉は、平松さんはもちろんだが、多くの人の心に生きている。【村上久美子】