8月4日は、松田直樹さんの命日だ。2011年に亡くなってから、もう4年がたった。当時JFLだった松本は、J1で戦っている。時間が経過しても、松田さんの影響力は色あせていないように思う。

 2011年1月9日、横浜市内で行われていた「岩本輝雄のチャリティーサッカースクール」に松田さんは参加していた。別の取材で隣のグラウンドを訪れていた私は松田さんを見つけ、スクールが終わるのを待って声をかけた。失礼を承知で名刺を出しながらあいさつをすると、更衣室などがある建物への入り口に通じる階段に腰掛けてくれた。ちょうど、横浜から当時JFLの松本への移籍が発表になった日だった。

 松田さんからは、サッカーへの愛があふれていた。J1クラブからJFLに移籍するということは、取り巻く環境も一変する。印象に残ったのは「洗濯も自分でするし、ユニホームもスパイクも自分のものを持って行くよ」という言葉。洗濯機を自ら回す元日本代表の姿を想像し、それほどの覚悟なんだと思った。いつか、松本でプレーする松田さんを取材してみたいと思っていたが同年8月4日、訃報を聞いた。

 取材を通じて、松田さんの存在、影響力の大きさを感じた。入院後は意識が無いにもかかわらず、毎日、大勢の関係者や選手が訪れた。松田さんの人柄や、広い交友関係によるものだ。仕事の合間や練習後の夜など、昼夜を問わず人が集まった。見たことのない、憔悴(しょうすい)しきった様子で病院から出て来る選手たちの様子からは、つながりの強さが伝わってきた。

 亡くなった翌日には、松田さんが倒れた梓川ふるさと公園多目的グラウンドに足を運んだ。入り口には、花束やタオル、手紙などがたくさん並べられていた。市街地から車で40分ほどかかる場所にもかかわらず、松本のサポーターだけでなく横浜のユニホームを着た方も訪れていた。その光景を見ながら、こんなにも多くの人に愛されていたんだとあらためて感じた。そして松田さんが抱いていたサッカーへの愛情は、たくさんの人に伝わっていたんだと思った。

 練習中に急性心筋梗塞で倒れた松田さんの死後、サッカー界におけるAED(自動体外式除細動器)の普及率は高くなった。今では、ユース世代の試合が行われる地域のスタジアムにも、AEDが設置されている。亡くなってからも、その存在感は強いままだ。

 ◆保坂恭子(ほさか・のりこ)1987年(昭62)6月23日、山梨県生まれ。埼玉県育ち。10年入社。サッカーや五輪スポーツ取材を経て、今年1月から4月まで松本を担当。5月から静岡支局に異動し、J2磐田担当。松本・アルウィンの雰囲気は本当に素晴らしい。同点のまま終盤を迎えると、スタジアムの盛り上がりが伝わってきて「これは勝つ!」と思っていました。