<箱根を読み解く7つのカギ:(4)留学生>

 ケニアからの留学生が箱根駅伝を走り始めて、24年目になる。彼らのごぼう抜きは、もはや風物詩にもなってきた。今回もいる。前回3区で区間賞を獲得した山梨学院大のオンディバ・コスマス(4年)は、今年の予選会で個人1位。「今度は2区で区間賞を取りたい。できれば区間新を」。同郷の先輩モグスが持つ記録更新に、意欲を見せた。

 同大が受け入れたケニア人留学生は、コスマスで8人。92年に初の総合優勝を遂げ、94、95年と連覇を果たした中で、彼らの存在は大きかった。留学生の波は他校にも波及した。あまりの速さに、批判の声がやまない。「ひきょう者」「黒人を使うな」と言った罵声が、沿道から上田誠仁監督(52)に数限りなく向けられた。ただ、そのたびによぎった言葉。「ほんなこん気にしちょ(そんなこと気にしなくていいよ)」。

 上田

 オツオリの甲州弁です。ケニアは昔、英国の統治下にあって、いろいろな物の見方を肌で感じている。だから「これぐらい大丈夫。みんなと一緒にお風呂で背中を流し、近所のおばちゃんがリンゴをくれる。それで十分です」って。上手を行かれました。

 ジョセフ・オツオリとケネディ・イセナ。89年大会で初めて、留学生ランナーが2人、箱根路を駆け抜けた。きっかけは酒飲み話。上田監督が、当時下宿していた同部顧問の秋山勉さんと毎夜、交わした議論だった。

 上田

 当時はイカンガー(タンザニア)やアベベ・メコネン(エチオピア)といった東アフリカの選手が活躍していた。なぜ強いのか。これを知りたかったんです。ならば1回見に行こうと。ケニア大使館にアポなしで行って、マラソン大会の日程を聞いたりしました。あらゆる人を通じて紹介してもらったのが、オマン・シリーというオツオリの指導者でした。

 後日、来日したのがオツオリだった。日本語の辞書とバッグを背負い、サンダル姿の成田空港で、唐突に「アドバイスを」と求めた。戸惑う上田監督は「少しでも早くグラウンドに行き、少しでも長く練習して帰りなさい」とだけ言った。18歳の青年は素直に実践し、朝6時半からの練習で5時に起きた。同部屋の選手が「早く起きすぎて困ります」と訴えたほどだった。

 上田

 「なら、お前も早く起きろ」と言いました。それが徐々に浸透した。2人が4人、4人が8人と増えて、自然と集合時間は朝6時前に。オツオリが、みんなを動かしたんです。同部屋だったのが中沢正仁。県岐阜商で高橋尚子を教えた彼です。オツオリによって変わった中沢がQちゃんを教えて、シドニー五輪の金メダルにつながった。世界につながったんです。

 06年8月30日。オツオリは交通事故で亡くなった。だが、彼が育った高校とは今も結ばれている。やってきたその1人がコスマス。

 上田

 セレクションじゃない。オツオリから続く流れなんです。コスマスは、練習で良くなってきた子。特に注目を浴びる走りができるわけではない。でも「留学生」なんですから。ただ走らせただけで終わってはいけない。何を学ばせたか。それが大切なんです。【今村健人】

 ◆箱根駅伝とケニア人留学生

 89年大会のオツオリ、イセナを皮切りに、山梨学院大ではマヤカ、ワチーラ、カリウキ、モカンバ、モグスと過去7人が走ってきた。特にモグスは09年大会の2区で1時間6分4秒の驚異的な区間記録を樹立した。また、日大でも過去にサイモンとダニエルが走破。ダニエルは09年大会の2区で史上最多20人抜きを達成した。今回は山梨学院大のコスマスと、前回2区6位だった拓大のマイナの出場が確実視されている。