プレーバック日刊スポーツ! 過去の8月18日付紙面を振り返ります。2004年の1面(東京版)は、体操男子団体28年ぶり金メダル獲得でした。

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<アテネ五輪:体操>◇男子団体決勝◇8月16日◇ギリシャ・アテネ

 美しい新月面宙返りだった。最終演技者の冨田の着地が決まると、会場は敵も味方もなくなった。2位米国の選手たちが拍手をし、応援席からもスタンディングオベーションが起きる劇的な幕切れ。会場全体の歓声と拍手が、喜び合う日本の6人の若者を祝福した。28年の時を超えて体操ニッポンがたくましくよみがえった。

 最初のゆかで7位と出遅れ、5種目目までに首位ルーマニアに0・063差まで迫った。3位米国とも0・062の微差。ミスをしたら負け。極限の状況で最後の鉄棒を迎えた。日本の命運は米田、鹿島、冨田の3人に日本の命運が託された。初優勝がちらついたルーマニアは、2番目の演技者が落下して脱落。大技で逆転を狙った米国も得点が伸びない。

 1番手は主将の米田。昨年の世界選手権では補欠も、悔しさを胸に練習を重ねはい上がってきた。「鉄棒勝負だと思った。自分の練習通りにやれば大丈夫だと思っていた」と、落ち着いた演技で、それまで日本選手最高の9・787をマーク。「米田さんを信じていた」というオールラウンダーの鹿島が、さらに高得点の9・825で続いた。

 最後の冨田の演技の前に、森泉コーチの携帯電話が鳴った。加納監督から10点満点の演技構成を9・9の安全運転に変える指示だった。緊張も極限状態で出た指示。点数を知らない冨田は動揺することなく、スーパーE難度のコールマンを成功させた。その演技の美しさに、審判も演技構成点10点のまま採点する“誤審”。40人中最高の9・850が出た。「入りのシュタルダーを変えた。この状況を想定して練習してきたから」と言ってのけた。

 大会直前、加納監督はエース格の塚原を鉄棒から外した。それは塚原の個人総合への道を閉ざす結果となったが、チームの勝利を優先させた。「米田と鹿島はまず失敗しないから、この2人を前に置いておけば大丈夫と思っていた。冨田はどうにでも対応できる」。指揮官の思惑通りの展開は、3人にとってはある意味練習通りの結果だった。「今までのメダルと重みが違う。団体で取れて最高。最強のメンバーがそろったと思う」と新エース冨田が胸を張った。

 28年、7大会ぶりの金メダル。3人による演技というミスのできない重圧の中、日本は力を出し切った。予選で1位になり、決勝はゆかから始まり鉄棒で終わる。このシナリオも何度も繰り返したシミュレーション練習の中に、入っていた。練習通り、ある意味では狙った通りに取った金メダルだった。東京五輪の金メダリストでもある早田卓次・日本体操協会副会長は「こんなに早くチャンピオンの地位に戻れるとは…。今は競る相手が多い。『体操ニッポン』の復活というより、今の連中は僕たちを超えてしまった」と興奮を隠せなかった。その言葉通り、この日の6人は強かった。

※記録や表記は当時のもの