1964年東京五輪のバレーボール女子で金メダルを獲得し「東洋の魔女」と呼ばれた日本代表メンバーだった丸山サタ(まるやま・さた=旧姓磯辺=いそべ)さんが18日午後10時13分、大阪市内の病院で死去した。72歳。千葉県出身。自宅は大阪市住吉区。葬儀・告別式は21日午後1時から大阪市東住吉区長居公園1の32、臨南寺で。喪主は88年ソウル五輪競泳代表の長男繁守(しげもり)氏。

 2度目の東京五輪を見る夢がかなわなくなるとは思ってもいなかったろう。73歳の誕生日前日の急逝だった。「東洋の魔女」は日紡貝塚のメンバーで固め、丸山さんは最年少レギュラーでアタッカーだった。太平洋戦争の影響で孤児になり、住まいも転々。戦争の影の中で生き抜いたが「私は能天気だから」と天性の明るさ、たくましさ、我慢強さを失わなかった。

 大松博文監督の厳しい指導に耐えた。「先生(大松監督)はありとあらゆるレシーブの練習をさせた」と言っていた。20歳で出場した東京五輪では全試合に出場。大一番のソ連戦で日本選手最多の6得点を挙げ、金メダル獲得に貢献した。

 長男の繁守氏と親子2代の五輪選手になったが、ソウル五輪では現地に息子の応援に訪れなかった。「“魔女の子”と言われ、つらい思いをさせていた。私が行ったらメダルのことを言われて本人がかわいそう」。五輪の光、そしてそれにまつわる影を知る人だった。