競泳男子自由形で五輪3大会に出場、4つの銀メダルを獲得した山中毅氏が10日午後10時16分、肺炎のため東京都練馬区の病院で死去した。78歳だった。1950年代から60年代に世界記録を次々と塗り替え「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進氏(故人)の再来ともいわれた。

 最初の五輪は56年メルボルン大会で、石川・輪島高3年だった。400メートル、1500メートル自由形、同じ17歳で終生のライバルとなったマレー・ローズ(オーストラリア)に敗れて銀メダルを獲得した。早大入学後に小柳清志監督(故人)との出会いで才能が開花し、国内外の大会で世界新記録を連発。しかし、金メダル候補として臨んだ60年ローマ五輪では400メートルで再びローズに敗れて銀、800メートルリレーでも銀に終わった。

 64年東京五輪は、ピークを過ぎて400メートル6位。五輪3大会で7種目を泳いだが、金メダルを獲得することはできなかった。昨年5月の早大スポーツ功労者表彰式では「銀メダルは4個獲得しましたが、それよりも1個の金メダルがほしかった」とあいさつ。現役の選手たちに、1番になることの重要性を説いていた。