<為末大学

 ~ニッカンキャンパス~>

 今年1年のスポーツ界を振り返って、私にとって一番印象に残っているのは体罰の問題だ。

 大阪・桜宮高でバスケットボール部の生徒が自ら命を絶ち、そして柔道の女子日本代表選手に対しての暴力が明るみに出た。スポーツ界がこれまでよしとしてきた文化に、世間が一気に切り込んでいった年だったように思う。一方で20、30年前まではそれを社会も容認していたところがある。人気スポ根ドラマの中では公然と体罰が行われていたし、野球漫画の中でも父親が息子を殴りつけていた。そこには勝負をするには肉体的にも精神的にも追い込まれ、それに耐え切れるだけの強さがないと勝てないという考えがあったように思う。

 確かに体罰のような古い体育会的文化は特殊だけれど、先輩後輩や先生生徒の上下関係がはっきりしているところや、上には問答無用な文化など、今の日本社会の端々にも同じものが見受けられる。それを証拠にいまだに理不尽なことに耐性があるとして、体育会出身者が就職でも人気がある。

 陸上界に円谷幸吉という人がいた。1964年(昭39)東京五輪の男子マラソンで銅メダルを獲得した、私たちの大先輩だ。華々しくメダルを獲得した後、けがを負ったりと満足に走れなくなり成績が伸び悩み、思い詰めた円谷さんは自らの命を絶った。

 遺書を読むと、そこには走ることへの喜び、自らの意志で走っているという能動性がほとんどなくなってしまっている。故障を抱えても、ひたすらに周囲の期待に応えようとする、悲しいほど真面目で実直な男のひたむきな姿が見える。

 アスリートは何のためにスポーツをするのか。最初はただ楽しいからと言っていても、徐々にステージが上がっていけば、勝つことを求め、また求められ、責任を負うようになる。

 当然才能を持っていれば勝ちたいと選手も思うし、周囲も期待する。けれどもどこかで選手の意志よりも世間の期待が上回る瞬間がやってくると、それはとても大きな圧力として選手の背中にのしかかる。

 桜宮高の事件の後、被害者の生徒に向けて「結局、心が弱かったんだよ」という心ない声も聞こえた。「そこで耐えられないやつはどうせ最後まで頑張れない」というのは昔、体罰が横行するチームで言われていたことだ。

 以前、真面目で責任感が強い人ほど鬱(うつ)になりやすいと企業のカウンセラーに聞いたことがある。それを聞きながら「あぁ、社会にも程度は違えど変わらない圧力がかかっているんだな」と思った。

 2020年、東京にまた五輪がやってくる。メダル獲得数は最大を目指すと宣言したこともあり、アスリートたちに寄せる世間の期待はこれからどんどん高まっていくのだろう。

 「父上様

 母上様

 三日とろろ美味しうございました」で始まる円谷幸吉さんの遺書は、こう結ばれている。

 「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません、何卒お許しください」

 世間の期待を一身に背負ったランナーが死を選ぶ時、許してもらおうと思った相手は両親だけだったのだろうか。東京で行われる2度目の五輪は7年後に迫っている。私たちのスポーツ文化は、そして社会は、1964年からどう変わっていくことができるのだろうか。(為末大)