あれは1978年(昭53)夏の終わりのことだった。東京・本郷の東大グラウンドに、1人の高校生がやってきた。身長184センチ、体重74キロの長身痩軀(そうく)。米子東(鳥取)の3年生、野口裕美だった。2年で春の甲子園に出場経験もあり、山陰地方では名の知れた左腕投手だ。

この夏、高校野球の鳥取大会で敗れた野口は、神宮でのプレーを夢見て、東京6大学への進学を希望していた。進学校の米子東なら、東大もあり得べし、と考えたであろう高校の先輩を通じて「練習を見に来いよ」と誘われたのだった。

ブルペンに入った野口の投球を見た新入部員の大山雄司は、とにかく驚いた。1球目のカーブからして、捕手が取り損ねるほど鋭く変化した。

「こいつが入部したら、俺の出番はなくなるな」

東大合格者を数多く輩出する学芸大学付属(東京)出身。甲子園には遠い高校生活だったが「どうしても神宮で野球をやりたい。でも私学では出られないだろう」と計算を働かせて、東大工学部に進学した。野口が入部すれば東大悲願の初優勝が、ぐっと近づくのだが、このころの大山にとっては、チームの勝利より、自分の出番が気がかりだった。

一方、野口は東大の練習には参加したものの、投球練習をした記憶がない。キャッチボールだけで帰ったという。そもそも野口には、東大進学の意思はなかった。野球での推薦入学を認めていなかった立大は、進学校のめぼしい高校生に当たりをつけていて、野口にも声がかかった。志望校を立大一本に絞った野口は79年春、一般入試で経済学部経営学科に入学した。

82年9月、早大対立大 力投する立大の野口
82年9月、早大対立大 力投する立大の野口

野口は、2年だった80年春、12試合94回を投げて6勝。奪三振96で戦後の記録を更新して、華々しく神宮での本格デビューを果たす。チームを2位に引き上げ、低迷が続いた立大躍進の立役者と騒がれた。大学の英称にちなんだ「セントポールの星」は、女子学生の人気も一手に集めていた。一方、大山も同年春、3年生で初勝利、秋には2勝目を挙げた。身長170センチ、体重68キロの自称“本格派”は、地道に制球と配球の妙に磨きをかけて、東大のエースとして認められるようになっていた。

東大-立大3回戦は、延長12回表を終わって0-0。東大最後の攻撃で、先頭打者を三振に切って取った野口だが、安打と四球で2人の走者を背負った。1死一、二塁。一打サヨナラの場面。打席には、大山が立った。

2年半ほど前、東大球場で「出番を奪われる」と野口を恐れた大山だが、ここでは「いいところで回ってきた。打てば、俺がヒーローだ」と気合十分。野口は「この場面で“赤門旋風”の象徴、大山さんか…。嫌な巡り合わせだな」と感じていた。(つづく)【秋山惣一郎】