野村克也監督のピークはヤクルト時代。代名詞のID野球。決して緻密という野球ではない。データ重視はデータに従う野球ではない。選手に「考える野球」を植え付けるための手段。投手の1球、捕手のサイン、打者の読み…根拠を追求する。「ヤマを張るのと、配球を読むのはまったく違う」。弱者にも勝つ方法はある。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし、を強く説いた。

考える野球は自チームの成長だけでなく、相手には脅威を与えた。「何をやってくるか分からない」「丸裸にされてるんじゃないか」-そう思わせ、相手を揺さぶる効果もあった。1990年(平2)の1年目でまいた種。水をやり育った2年目は11年ぶりAクラス入りし、3年目の92年に14年ぶりリーグVで花を咲かせた。

このオフ、「事件」があった。長嶋茂雄氏の巨人監督復帰。翌93年からJリーグがスタートする。野球離れを危惧した球界にとって待望のニュース。Jに対抗するため、明るい、楽しい野球を求める声も当時、多かった。長嶋人気で球界が盛り上がる-。そんな空気が球界を覆う中、長嶋人気を、マスコミを利用した。相馬球団社長に打診する。「巨人との対立構図を作っていいか。迷惑をおかけすることになるかも知れないが」と。マスコミを使い、巨人を揺さぶり続けた。

「南海時代なんてなあ、記者にトレードのニュースを教えても新聞に載るのはたった、これだけ」。両手の人さし指でたばこ大の大きさを作った。長嶋巨人VS野村ヤクルトの構図は球界の話題をさらい続け、球界の中心にいた。92年リーグVも、2位巨人とは2ゲーム差。だが93年。「盟主」に16ゲームの大差をつけ、リーグ2連覇を果たす。2年連続の対戦となった「常勝」西武との知将対決にもリベンジし日本一。「森は上場企業の管理職、部長か。こっちは金も人材もない町の商店主」とボヤキも最高潮だった。

まさに頂点。文字通り一商店主から出発した、ダイエー中内オーナーからひそかに監督就任の要請を受けた。もう1つの代名詞「再生工場」も中内氏には魅力だった。埋もれている戦力、持てる能力を生かす。一芸でいい。適材適所を与え、戦力に変える。選手にはプロで己の生きる道を考えさせた。当時、ダイエーは89年球団買収から連続しBクラス。練習生からのし上がった商店主・野村監督にチーム改革を託す思いだった。

そんな野村監督も揺さぶりの恐怖に負けたことがある。

一振りにかける杉浦の代打サヨナラ満塁本塁打で幕を開けた、92年の日本シリーズ。3勝3敗で迎えた最終第7戦(神宮)。1-1の延長10回1死三塁で3番秋山に勝負を指示。エース岡林が犠飛を許し、敗戦した。次打者は4番も途中出場の奈良原。多くは「秋山敬遠、奈良原勝負」を予想した。試合後、若い女性ファンが取り囲む神宮クラブハウスで野村監督の声は、珍しい弱々しさだった。「一、三塁で小技の利く奈良原で…。森が何をしてくるか…。嫌だった」。そして、苦笑した。「最後は根性、気合!っちゅうこっちゃ」。

数字、データのクールな野球ではない。時に情も。四角い黒い縁のめがね姿で人を寄せ付けない緊張感を発散させた、監督就任。ピークに向かいながら表情も、コメントも柔和に変わっていった。考える野球で野球の奥深さ、面白さを再認識したファンばかりでなく、「ノムさ~ん」の黄色い声に笑顔で応える好々爺(や)ぶりもみせ、女子高生ファンさえも集めていった。【井元秀治】