宮城県石巻市を「すごく過ごしやすくて、いい所でした」と振り返る。琉球ブルーオーシャンズ比屋根渉外野手(33)は、遠く離れた“第2の故郷”を思う。

日本製紙石巻でプレーしていた11年は、ドラフト解禁の年。震災当日は関東遠征のため都内にいて、静岡にある会社の寮へ移動した。約1カ月後に帰った石巻は、景色が一変。工場も、自身が所属していた日本製紙木材の事務所も、津波で流された。

琉球ブルーオーシャンズの比屋根(球団提供)
琉球ブルーオーシャンズの比屋根(球団提供)

人生の「分岐点は、震災だったと思います」と明かす。泥出しやがれきの片付けの日々。社員や地元の人の家を訪れ、どれだけやっても終わらない。「もう野球ができないと思っていた。野球部がなくなると覚悟していました」。目の前のがれきを見れば、とても野球どころではないことは分かった。

50メートル走5秒8の俊足を武器に、野球一筋。「生きている意味があるのかな、というくらい。自分のいる意味がない。これからどうやって生きていけばいいのか」。そんな時、支えてくれたのは石巻の人たちだった。「今は元気がないけど、野球で俺たちに元気を与えてほしい」という声が、会社にも届いた。

練習が再開し、7月からは大会も始まった。ドラフト候補として名前が挙がるようになり「会社の人、市民の人に勇気、野球で力を与えられたらというのが強かった」。ドラフト3位でヤクルトに指名。地元の人の笑顔に、ホッとした。

プロ入り後は、都市対抗の応援を欠かさなかった。イースタン・リーグで石巻や仙台に行く際には、必ず事務所に立ち寄った。その度に、力をもらうのは自分だった。「みんなとても喜んでくれて、一緒に食事に行ったりして、すごくうれしかったです」。離れていても、テレビや新聞を通じて名前を伝えられるようにするのが目標だった。

外野の守備に就く琉球ブルーオーシャンズの比屋根(球団提供)
外野の守備に就く琉球ブルーオーシャンズの比屋根(球団提供)

「もう野球ができないと思った」ところからの再スタート。怖いものは、なかった。ヤクルト退団後、家族のサポートもあり野球を続ける。今も変わらず足を武器に、打球判断や相手の守備位置を見て隙を突く走塁に磨きをかける。「若い選手が、今の自分に負けていたら上には行けない。自分を追い越してもらいたいという思いはありますけど、心の中では負けたくないですね」と笑う。

今でも、社会人時代の同僚と連絡をとる。「人が、大事ですね。人のつながりって大事だと本当に思います。元気にやっていると聞くと、自分も頑張らないといけないなと思う。このつながりは、一生です」。分岐点を経て進んだ野球の道を、今は迷いなく走っている。【保坂恭子】

<比屋根の10年>

◆11年3月11日 八王子市内の宿舎で地震発生

◆同年4月 静岡から石巻へ戻り復興支援を始める

◆同年7月 都市対抗の第1次予選に出場

◆同年10月 ドラフト会議でヤクルトから3位指名

◆13年 自己最多14盗塁をマーク

◆15年 自己最多84試合に出場し3本塁打

◆18年10月 戦力外通告。大和高田クラブへ

◆19年10月 琉球の第1号選手として入団発表