ヤクルトの高津臣吾2軍監督(49)は、公私で古田と最も深い絆を培った野球人だ。3学年下で入団は1年遅れだが「雰囲気、性格、生活スタイル、B型同士とウマがあった」。遠征先の食事、自主トレやオフの家族旅行。いつも行動を共にした。結婚式の媒酌人を頼むと「履歴書を送って」と言われ、完璧な準備をしてくれた。

「優しいのよ」と笑った。「相手から見た古田敦也はめちゃくちゃ厳しい人間。すごいところに投げるしリードもしつこい。投手高津臣吾が見た古田敦也は逆。めちゃくちゃ優しい」とほおを緩めた。日米通算313セーブ。女房役の寛容力と独創性に導かれ、クローザーの仕事を極めた。

怒られたことが1度もない。首を振れば必ず違うサインを出してくれる度量があった。93年5月2日、1年目の巨人松井秀喜に全球直球勝負でプロ初本塁打を喫した1打席を除いては-。「野村監督に『松井に真っすぐを投げろ』って言われた時以外は、やりたいようにやらせてくれた」。代名詞のシンカーは、古田のふとした助言で一気に輝きを増した。クローザーに定着して数年後のある日、身ぶりを交えて言われた。

古田 お前さあ、そこ、こっち側に、こう投げられへんの? 9回に投げるなら、長打は絶対に警戒しないといけない。長打を打ちにくいのは外角低めに落とすボール。打者清原だったら、三遊間寄りに2バウンドを打たせてショートの慎也(宮本)が捕れるように。

シンカーを右打者の外角低めに落とせないか、という提案だった。外角のボールゾーンからストライクゾーンへ曲げる「バックドア」。当時は誰も持ち合わせていない着想に目からうろこが落ち、マスターすると決めた。バックドアのシンカーは、平成の魔球として無類の強さを発揮した。「シンカーは右打者の内角低めに落ちるように想像するんだけど、そうじゃなくて、と。人が考えないようなことも考えていた。『常識は本当に常識か? 非常識は常識じゃないのか』ってね」。

米メジャーでの所属先が決まらず、ヤクルトに復帰した06年。古田兼任監督に「プライドを傷つけるかもしれないけど、背番号なしで浦添においで」と言われ、入団テスト受験を決めた。12年、BC新潟での引退試合後の「終球式」では、古田のミットに最後の1球を投じた。「ゼロから高津臣吾を作り上げたのはあの人だね」。親しみと敬意を込めて「兄貴」と呼んでいる。(敬称略=つづく)【浜本卓也】