本欄では平成の故人を不定期で回顧する。監督、球団管理部長として西武の土台を築き「球界の寝業師」の異名を取った根本陸夫氏(享年72)。1993年(平5)からはダイエー(現ソフトバンク)に移り、監督、フロントで辣腕(らつわん)をふるった。平成の時代、パ・リーグの両雄として2球団が君臨できたのは同氏の功績が大きい。

現在、西武で球団本部長を務める鈴木葉留彦は、今も根本の教えを大事にしている。92年オフにコーチからスカウトに転身したが、根本に「スカウトは足を運べ。人の評価に頼ってはいけない」と言われた。

鈴木 無形の財産だね。今、若いスカウトには同じことを言っている。

根本は93年からダイエーに移った。まさに最後に残した“遺産”のようだ。西武は今でも自前で選手を発掘し、育てることに定評がある。根本の哲学が、屋台骨を支えている。

西武の初代監督を務めた後、管理部長として今でいうGM(ゼネラルマネジャー)的立場に就いた。全国に情報網を張り巡らせ、時に裏技的手法でアマチュアの有力選手を獲得。86年からの9年間で8度のリーグ優勝という黄金時代を率いた森祗晶は、監督の立場で根本と接した。その関係は「理想だった」という。

森 現場には一切、口を出さない。あの選手を使えとか、投手交代がどうとか、全くない。非常にやりやすかった。補強の要望を出しても「今年は辛抱してくれ」と、はっきりおっしゃられることも。包み隠さない。信頼関係があった。

現場とフロントが同じ高さで同じ方向を向いていたから、西武は強かった。

「寝業師」と書くと、冷徹な印象を与えるかも知れない。親分肌の情の人でもあった。86年ドラフト1位で西武に入団し、現在は楽天投手コーチの森山良二は、2軍時代によく自宅に呼ばれた。決まって、シャドーピッチングを課された。

森山 ノーラン・ライアン、トム・シーバー、ドン・サットン。メジャーの一流投手の投球を分割写真にして、解説してくれた。

課外授業の後は夫人の手料理が待っていた。なぜか、いつも牛乳入りのすき焼き。まろやかな味は、今でも強烈に覚えている。

説教もされた。

森山 ある時「昨日の夜、博多であの店に行っただろう。あいつとは付き合うな」と言われた。ネットワークがすごい人だった。

人生訓も授かった。

「“ただ酒”は飲むな。おごってくれる相手が、最初は『森山さん』と言っていたのが『森山君』になり、最後は『森山』となる。自分で金を払ってメシを食え」

森山は「厳しい人だったけど、怒られるのは嫌じゃなかった。教えを生かせたかは分からないけどね」と懐かしそうに笑った。(敬称略)【古川真弥】

◆根本陸夫(ねもと・りくお)1926年(大15)11月20日、茨城県生まれ。日大三中-日大専門部-法大-コロムビアを経て52年近鉄入団。捕手として実働4年、通算186試合プレー後、57年引退。68~72年広島監督。68年に球団初のAクラス入り(3位)。78~81年にクラウン、西武で監督。82年から西武球団取締役管理部長。93、94年にダイエー監督。監督は通算11年務めた。94年オフからはダイエー球団専務、99年から社長。99年4月30日、72歳で死去。01年野球殿堂入り。現役時代は171センチ、64キロ。右投げ右打ち。