平成の初め、プロ野球界は「西武黄金時代」の真っただ中にあった。森祗晶監督に率いられた1986年(昭61)から1994年(平6)までの9年間で、リーグ優勝8回、日本一6回。他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。今年1月に81歳を迎えた名将が当時を振り返った。

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平成の時代は西武の優勝とともに始まった…とは書けない。平成元年の89年は、森が監督で在籍した9年間で唯一、リーグ優勝を逃した年だからだ。「やっぱり、よく覚えている。ある意味“勝負の教訓”というかな」。就任1年目から続けてきたリーグ3連覇は、近鉄に止められた。

森が学んだ教訓とは「勝利こそ絶対」の原理原則だった。オーナーの堤義明にシーズン報告を行うと、言われた。

「やりたければ、どうぞ」

優勝を逃したといっても、わずか勝率2厘差の3位。何より、それまで3連覇している。プライドを傷つけられてもおかしくないが、この強烈な発言は闘争心の種火となり、チームの結束を生んだ。

「それまで3連覇してたのに、優勝を失った。選手にも悔しさがあった。オーナーの言葉が選手たちを奮い立たせてくれた。石毛、辻といった主力が、次々と電話をかけてきた。『監督、辞めないで下さい。来年、ぶっちぎりで優勝しましょう』とね」

「やりたければ、どうぞ」。堤のひと言がなければ、90年からの5連覇は成し遂げられたかどうか分からない。オーナーと監督の緊張関係が、黄金時代の完成につながった。

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29年たった今でも、V逸の悔しさを忘れていない。89年10月12日。1ゲーム差の首位で近鉄とのダブルヘッダーを迎えた。連敗で首位陥落し、そのままペナントを失った。ブライアントに4連発を食らった、あの日だ。

直接の原因は、この連敗かもしれない。ただ森には、悔やんでも悔やみきれない試合が別にあった。「勝っているゲームを、ひっくり返されて負けた。この1敗が大きい。後になって響いた」。先立つこと1週間。10月5日のダイエー戦だ。

楽勝のはずだった。3回を終え8-0とリード。先発は渡辺久で、その年15勝のチーム勝ち頭だ。ところが4回、先頭への四球から2点を失い、流れが一変する。7回までに8-5と追い上げられた。それでも7、8回と1点ずつ加え、10-5で最終回を迎える。続投していた渡辺久には十分すぎる5点ものリード。森は、そう信じていた。

「負ける、ということは全然、頭になかった。誰しも思うでしょう。先手を取って、渡辺も点を取られたが、8回にダメ押し点を取ったんだから」

もくろみは、あっさり崩れた。渡辺久は9回1死から4連打で2点を失い降板。後続も止められず、9回だけで8点を失い10-13。裏の攻撃で2点を返したが届かず、8点差をひっくり返された。当時の紙面に「考えられない」のコメントが残っているが、今でも同じ気持ちだ。「どう考えたって…信じられないよ」と苦笑いで懐かしんだ。ダイエー戦を落としていなければ、最終成績は70勝52敗8分けで勝率5割7分4厘。近鉄(同5割6分8厘)を上回り、優勝だった。

渡辺久信、郭泰源、松沼博久、渡辺智男。89年は10勝投手が4人もいた。在任9年間で「一番確実にペナントを取れる」と思っていた。それなのに…。「おごりかな。やはり戦いは本当に何が起きるか分からない。それがいい教訓になった。用心に用心を重ね、試合をやっていくようになった。5連覇につながっているのは確か」。

5連覇時の自分なら、9回まで渡辺久を続投させず代えた。石橋をたたいて渡る-。森野球の源流は、89年の屈辱にあった。苦すぎる経験が森を突き動かし、翌年の日本一奪回へとつながっていく。(敬称略=つづく)【古川真弥】

◆森祗晶(もり・まさあき)現役時代の登録名は森昌彦。1937年(昭12)1月9日、大阪府生まれ。岐阜高で甲子園出場後、55年巨人入団。V9時代の正捕手で8年連続ベストナイン。67年日本シリーズMVP。74年引退。通算1884試合、1341安打、81本塁打、打率2割3分6厘。78年からヤクルト、西武のコーチを経て86年に西武監督に就任。9年間で8度リーグV、日本一6度。01、02年は横浜(現DeNA)の監督を務めた。正力松太郎賞2度、05年野球殿堂入り。現役時代は174センチ、84キロ。右投げ左打ち。