平成の初め、プロ野球界は「西武黄金時代」の真っただ中にあった。森祗晶監督に率いられた1986年(昭61)から1994年(平6)までの9年間で、リーグ優勝8回、日本一6回。他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。今年1月に81歳を迎えた名将が当時を振り返った。

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89年のオフ。森は「優勝を逃した報告」にオーナーの堤義明を訪れ「やりたければ、どうぞ」と言われた。何が何でも巻き返す。最初に手を付けたのは、リリーフ陣の整備だった。

同年10月5日のダイエー戦で、8点差を逆転された教訓があった。管理部長の根本陸夫に頼み、西岡良洋との交換トレードで巨人から鹿取義隆を獲得する。「僕が根本さんに『とにかく鹿取を取ってくれ』と。ジャイアンツで浮いていると聞いたものだから。向こうは『左に強い打者が欲しい』と。コトは進んだ」。

ドラフトでは8球団競合の目玉・野茂英雄ではなく、松下電器(現パナソニック)の潮崎哲也を単独指名。経験豊富なベテランと即戦力の新人。2枚のサイドハンドを加えた。

「セットアッパーから抑えを確立しないと、やはり取れるものも取れない。また先発に無理強いしてしまう。1人でもいいからリリーフをつくらなければ、という考えで物色した」

森流の巧みな起用で、手に入れたコマは輝きを放った。潮崎を、いきなりピンチの場面でデビューさせたのだ。90年4月14日のダイエー1回戦(平和台)。8-7の6回2死一、二塁で送り出した。潮崎は四球で満塁としたが後続を断ち、7、8回も抑えた。9回は鹿取が移籍後初登板し、初セーブを挙げた。

潮崎が投入される直前、6回表終了時は8-2とリードしていたが、その裏に5点を失い1点差となった。まさに、8点差をひっくり返された前年10月のダイエー戦をほうふつとさせた。そんな修羅場で、事もあろうにルーキーをデビューさせた。「リスクはあるだろう」と承知の上だった。「でも、そこで結果を出せば、想像していた以上の戦力になってくれる」。あえて…だった。

前年の屈辱から終盤の安定こそが勝利に直結すると学び、信念を持って遂行した。潮崎はこの年43試合に登板し、7勝4敗8セーブ、防御率1・84。新人王こそ野茂に譲ったが、パ・リーグ会長特別賞を受賞した。鹿取も27セーブポイントを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得した。こうして力を増幅した90年の西武は、2位オリックスに12ゲーム差をつけ、2年ぶりの優勝を果たした。森は日本一をかけ、古巣・巨人と3年ぶりに選手権で相まみえることとなった。(敬称略=つづく)【古川真弥】

90年4月14日、ダイエー戦で初セーブを挙げた西武鹿取(中央)は捕手伊東とハイタッチ。右は三塁手石毛
90年4月14日、ダイエー戦で初セーブを挙げた西武鹿取(中央)は捕手伊東とハイタッチ。右は三塁手石毛