平成の初め、プロ野球界は「西武黄金時代」の真っただ中にあった。森祗晶監督に率いられた1986年(昭61)から1994年(平6)までの9年間で、リーグ優勝8回、日本一6回。他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。今年1月に81歳を迎えた名将が当時を振り返った。

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野球は守りからか、攻めからか。永遠のテーマについて森に聞いた。

「やはり守りからだろうな。点を与えなければ負けないんだから。攻撃重視で点は取っても、ザルみたいな内野、外野なら勝てない。投手を中心とした守りというものが、第一だよね」

「慎重」「徹底」を大切にする森からすれば、至極自然な答えだった。防御力が西武の黄金時代を支えた。秋山、清原、デストラーデ。強力な「AKD砲」を擁しても、ぶれることはなかった。

「伊東は素晴らしいキャッチャー。清原も下手な一塁じゃない。二塁辻は名人。三塁石毛、堅実。ショート田辺、地味だけど肩は強い。外野は秋山、平野に笘篠が入れば、間を抜くのは容易じゃない。守りからつくったチームは大崩れしない。だが、どんな投手も木っ端みじんに打つ打線なんて、ありゃしない」

92年(平4)ヤクルトとの日本シリーズに、森の野球観は如実に表れていた。3勝3敗、勝った方が日本一という第7戦(神宮)。1-1の8回、清原が遊飛に倒れると、森は裏の守りから清原に代えて守備のいい奈良原を出した。そこまで17打席無安打とはいえ、同点の終盤に4番を下げた。

「守りを固めて、つまらん点を与えないことが第一。相手は後攻め。ミスから点を取られたら終わり。DH制がない。延長戦を考えた時、デストラーデと清原と両方、守備に置くのは危険。デストラーデはものすごく打っていた。清原に回ってくる打席の回数と守る回数を考え、デストラーデを残した」

先述の通り、清原の守備は下手ではない。防御を価値判断の上位に置き、石橋をたたいた。すると延長10回表、1死三塁の好機をつくる。打者は秋山。次打者は清原…ではなく奈良原だ。

「秋山を敬遠して、奈良原と勝負と思うじゃない。結果、秋山が犠牲フライで決着がついた。そこに野球の面白みがある。後日、野村監督に聞いた。秋山を歩かせようとは思わなかったのかと…」

野村克也は「それも考えたけど、秋山を歩かせたら、三塁辻。一塁秋山。バッター奈良原。3人とも足が速い。奈良原は長打力がなくても、何をしてくるか分からない怖さがあった。スクイズ。エンドラン。ダブルスチール。そう考えたら秋山の方が三振を取りやすいバッターだった」と説明した。

森は思いを巡らせた。「確かに(投手の)岡林との相対関係を考えたらね。ただ、スライダーが1個分、中に入った。ボール球だったら空振りしたかも知れない。勝負のアヤ。決して、秋山と勝負したのは間違いではない」。逆の立場だったら、果たしてどうしただろうか。「難しいな。やっぱり考えるな。正解はないよ」。森西武と野村ヤクルトの攻防は、防御を起点とした詰め将棋のような読み合いがあり、その攻防が野球好きを没頭させた。次打者が清原のままだったら、また違うドラマが生まれたのかも知れない。(敬称略=つづく)【古川真弥】