延長戦に突入後も板東の投球は衰えなかった。5回から8回まで走者を1人も出さなかった。9回までに12奪三振。そこから18回まで13三振を奪うのだから、まさに快刀乱麻だ。

 板東 まったく疲れは感じなかったですね。だってナイターになってからは、もう涼しゅうて、涼しゅうてね。ベンチには氷の入ったお茶があった。そんなもん飲んだことのないごちそうですからね。甲子園に来て、武庫川近くの都旅館でも、夕食にでてきたトンカツにはびっくりしました。初めて食べたんですがおいしかったですわ。練習も制限時間があるし、(公式戦の)試合(のある日)のほうが楽でした。だって普段は練習試合でダブルヘッダーを組んでも、ピッチャーは僕1人しかいないんです。2試合とも僕が投げるんですから。朝から晩まで練習、練習。合宿でも練習がきついから朝起きると決まって2人ほどおらんのです。みんな逃げるんですよ。そのうち部員が足りなくなった。マネジャーでピンポン(卓球)をやってた玉置がサードを守るほどでした。

 板東が最上級生になる頃、徳島商監督の須本憲一の厳しい指導に退部希望者が続出した。徳島大付属中で野球部と卓球部に掛け持ちしていた同級生の玉置秀雄が「8番三塁」に抜てきされる。玉置は、板東の良き理解者。魚津との延長18回の戦いでも6つの三塁ゴロをさばいて支えている。

 玉置 僕にとって東大に匹敵するのは甲子園だったんだろうね。東大に行けないんだったら甲子園を目指そうと思ったんです。でも練習が厳しすぎて、ようけやめていった。恐怖心を与えられながら練習しとった。下のときは先輩には絶対服従やし、まるで軍隊のようやったからね。だから板東とは「うちは練習時間では日本一やろな」と語った覚えがあります。

 3番レフトは広野翼だった。父明夫も、兄弟も徳島商出身の家柄。後に次男の翼は阪急入り、三男功も西武などでコーチを務める。広野は延長15回裏2死、魚津・河田政之助のフライをフェンス際で好捕するなど活躍した。

 広野 練習はえろうて(きつくて)、えろうてね。水を飲んで汗をかいたら疲れるというのが当たり前の時代でしたが、我慢ができずにボール拾いをするふりをして、水田の水をすくって飲んだんです。昼はアルミ製の器に入ったドカ弁でしたが、口に入らないので、水で流し込んで腹に入れた。根性はできましたよね。どの高校にも練習時間では負けんという自負はありましたから。

 夏の大会前にかかった熱射病をひきずりつつ、本番でもプレーした玉置が力を込める。

 玉置 僕らは監督から恐怖感を与えられながら練習してました。特に言いたいのは高校野球はいかにあるべきか。甲子園に行ったから素晴らしい、行かなかったから素晴らしくないというのは間違い。レギュラーより3年間補欠で球拾いで過ごした人間のほうが素晴らしいと思うんですよ。うちは板東のワンマンチームで、その本人が私だけに「なあ、1回戦だけは勝とうな」と言ってたのに三振をとりまくるわけじゃないですか。話が違うなと思いましたよ(笑い)。

 徳島商と雪国のハンディを乗り越えた魚津の戦いは、いよいよ終盤に持ち込まれた。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

 ◆甲子園とナイター 58年の徳島商-魚津の一戦は午後4時25分に試合開始。3時間38分の戦いで、試合終了が午後8時3分。午後6時25分、照明灯によってグラウンドが照らされ始め、その後1時間半以上も戦った末の再試合決定だった。夏の甲子園で初めてナイターが行われたのは、その2年前の38回大会(56年)。大会第1日の第3試合、伊那北-静岡の一戦だった。

(2017年5月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)