全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第16弾は、現在阪神で2軍監督を務める掛布雅之さん(62)です。習志野(千葉)の2年生4番として、1972年(昭47)夏の甲子園に出場。プロ入り後、阪神と巨人で名勝負を演じた江川卓さんとの出会いも、実は高校時代でした。8回の連載で掛布さんの原点に迫ります。


プロ野球における「伝統の一戦」といえば、巨人-阪神。いや、関西のファンは阪神-巨人戦と言う。東西の伝統チームの戦いは、長嶋のサヨナラホームランの天覧試合に象徴されるように、数々の名勝負を見せ続けてきた。

それは、チーム同士の戦いであると同時に、長嶋-村山、王-江夏、そして田淵-堀内という名勝負も生み出した。最近の伝統の一戦に、マウンドとバッターボックスの間で「魅せる」勝負が少なくなったのは寂しい限りだ。一番新しいところでは、1980年代を中心に展開された巨人のエース・江川と、阪神の不動の4番・掛布の対決だろう。

江川と掛布。高校時代に戻ると、2人は同学年だ。掛布が生まれた1955年(昭30)5月9日から、16日後の5月25日が江川の誕生日である。栃木・作新学院時代から怪物と呼ばれた江川に対し、掛布は千葉の名門・習志野の主将だった。同じ関東勢。しかし、その知名度は比較になるものではなかった。

実は2人が在学中、1度だけ練習試合が組まれた。掛布はその時のことを鮮明に記憶している。

掛布 試合途中、江川がブルペンで投げ始めると、ブルペンにはロープが張られた。あんな光景、初めて見たよ。今の取材規制だよね。

しかし、残念なことに、高校時代に江川-掛布の対決は実現していない。掛布によると、「控えの大橋(康延、元大洋)が先発したんだけど、僕は右膝にデッドボールを受けて途中交代。その後に江川が出てきた」という。球場の医務室から見た江川の投球練習。「突き上げるようなミットの音にビックリした」。

再びベンチに戻って試合を見ると、6回から登板した江川に対し、習志野打線は「9回までほとんどのバッターが三振だった」。怪物にねじ伏せられた“初顔合わせ”だった。

掛布 ベンチに帰ってくる選手が、ボールが消えちゃうって言う。消えちゃうんだから、当たるはずがないよね。じゃ、オレが打ってやる、と思ったけど、たしかにベンチから見てても、とにかく速かった。スピンのかかったすごい真っすぐだった。

この時の2人は、後に伝統の一戦で名勝負を演じようとは思いもよらなかったことだろう。掛布は「対決しなくて良かった」と振り返る。「だってあの時、江川に力負けしていたら、プロに入って同じ土俵で戦えなかった」と言うのだ。

79年7月7日、後楽園での初対決は、いきなり掛布が右翼席中段に本塁打を放っている。カウント3-1からのカーブ。「今でも1球ずつ、はっきりと覚えている」。掛布は当時、プロ6年目。大学-浪人を経てプロ入りした江川と、「気持ちの上では互角に戦えた」からこその1発だった。

しかし翌80年、一緒に球宴出場した全セのベンチで、掛布は江川のひと言に驚愕(きょうがく)する。

「やっぱりプロってすごいよね」と口を開いた江川に、プロでの先輩・掛布が「そりゃそうだよ」と返した。すると江川は「だって、ボクの投げた球に当てるんだから」と平然と言ってのけた。掛布は「こいつ、根っからの怪物だ」と、今度は返す言葉がなかった。

江川のプロ入りは社会問題にまで発展した騒動の末だった。一方の掛布はと言えば、ドラフト外同然の6位。「練習の虫」と呼ばれた掛布は、若トラからミスタータイガースへと上り詰めた。この間のサクセスストーリーはあまりにも有名だが、実は高校球児・掛布は意外に語られていない。

阪神タイガースの本拠地・甲子園を沸かせ、阪神ファンを魅了し続けてきた掛布もまた、甲子園にあこがれ、甲子園を目指し、甲子園を夢見てきた甲子園球児であった。(敬称略=つづく)

【井坂善行】

◆掛布雅之(かけふ・まさゆき)1955年(昭30)5月9日、千葉県生まれ。習志野から73年ドラフト6位で阪神入り。2年目の75年に三塁の定位置を獲得。79年は一気に長打力が花開き、48本塁打で初のタイトルを獲得。82年は本塁打王(35本)と打点王(95打点)、84年も本塁打王(37本)。85年は4番で40本塁打、108打点、打率3割の好成績で球団唯一の日本一をけん引。その後は死球などによるたび重なる故障に苦しみ、88年引退。通算成績は1625試合、1656安打、1019打点、打率2割9分2厘。現役時代は175センチ、77キロ。右投げ左打ち。16年に阪神2軍監督に就任。現役時代と同じ背番号31を背負い、若手育成に励む日々を送る。

(2017年9月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)