全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第19弾は、1976年(昭51)夏の甲子園で、柳川商(現柳川)の4番打者として、大会記録の8打席連続安打を記録した末次秀樹さん(59)の登場です。現在、真颯館(福岡)監督を務める末次さんは、1度もアウトにならず甲子園を去りました。いまだ破られていない記録を樹立した末次さんの高校時代を、12回の連載でお届けします。


柳川商時代に着ていたユニホームを披露する末次氏
柳川商時代に着ていたユニホームを披露する末次氏

偉業達成にも試合後の末次に笑顔はなかった。76年夏の甲子園。柳川商の4番打者として甲子園に乗り込んでいた。3回戦のPL学園(大阪)戦で8打席連続安打の新記録を達成。だが、試合には敗れた。

末次 自分がいくら打ったって、チームが勝たないといけない。そんな時代だった。個人の活躍よりチームの勝利。それができなかったから悔しかった思いの方が強かった。

高校3年の夏だった。1打席もアウトにならず聖地を去ることになった。初戦(2回戦)の三重戦で4打数4安打1打点。続くPL学園戦でも4打数4安打。打席に立ったすべての打席で安打をマークした。70年夏の甲子園で高松商・西川がつくった6打席連続安打の記録を更新した。

敗戦に笑顔がないだけでなく、達成感もなかった。翌日の日刊スポーツにはこう記されている。「何かあったんですか。えッ、新記録? 勝てなかったのになんの価値があるんですか…。4回も出塁したのに1度もホームを踏めなかった。まだ試合をやりたいような気持ちです」。優勝候補といわれながら、ベスト8目前での敗退だった。0-1で負けた。末次のコメントからもショックがありありと分かる。

その日の見出しでは「見事ニワトリ君返上」と紹介されている。末次は入部した時から「ニワトリ」と呼ばれていた。1年時から180センチを超える大柄選手も、やせ形体形だった。

末次 ガリガリだったんですよ。身長だけは高いけど、特に脚が細かった。だから「ニワトリ」なんです。下半身が弱かったのは間違いない。よくみんなからからかわれてました。

甲子園で8安打した時には188センチ、78キロ。下半身は強化していたとはいえ、今どきの高校生からすれば、線は細い。しかし、高校通算本塁打は39本。1年秋の新チームから「4番一塁」としてレギュラーをつかんだ。素質の高さからプロのスカウトにも注目される存在だった。

当時のチームのエースは、今季まで阪神2軍投手チーフコーチを務めた久保康生。1番打者は現ソフトバンク打撃コーチの立花義家。2人ともドラフト1位でプロ入りし活躍した。中大に進学したが、末次も同じ76年ドラフトで日本ハムから3位指名を受けた。そんなメンバーとともに全国制覇を狙っていたからこそ、敗戦に落ち込むのも無理はなかった。

末次 当時、我々の時代はヒットを打ったり打点を挙げてもガッツポーズもなかった。個人がどんなに打とうが、試合が終わって勝ってないと意味がないんです。でも、いまだ破られない記録のおかげで、指導者としてもやっていけているかもしれない。

母校柳川と自由ケ丘(福岡)で監督として甲子園出場を経験。現在は真颯館の監督を務める。「ただ、今の高校生は自分の記録のことは知らないでしょう」と語るが…。

あるとき、練習後のミーティングで真颯館の選手に尋ねたことがある。「オレが8打席連続安打の記録を持ってるの、知ってるか?」。すると一斉に「知ってます」と返ってきた。「おお、知ってたか」。

そのとき、脳裏には、苦しくも楽しくもあった3年間の集大成、あの8打席が浮かんでいた。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】


3年夏に8打席連続安打をマークした柳川商・末次(外部提供)
3年夏に8打席連続安打をマークした柳川商・末次(外部提供)

◆末次秀樹(すえつぐ・ひでき)1958年(昭33)4月6日、佐賀県生まれ。柳川商では2年春、3年夏に甲子園出場。76年夏は4番捕手で8打席連続安打、打率10割を記録(2試合)。日本ハムから3位指名も中大へ進学。社会人のヤマハ発動機へ進み、母校柳川のコーチを7年務めた後、94年に監督に就任。最初の夏となった95年に甲子園出場。その後、00、03年センバツ、02、05年夏に監督として出場。06年に自由ケ丘監督に就任し10年センバツに出場。監督として春夏計6回甲子園を経験した。13年4月から真颯館の監督に就任。

(2017年10月2日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)