会心の当たりから快挙は始まった。1976年(昭51)8月13日。末次を擁する柳川商は三重との初戦(2回戦)を迎えた。午前9時59分開始の第1試合だった。1回表の守備を0点に抑えると、1回裏にさっそく最初の打席が回ってきた。1死二塁から3番竹上寿外野手が右中間へ適時三塁打を放って先制。なおも1死三塁。末次は運命の第1打席に入った。

末次 夏は独特じゃないですか。その初戦でしょう? 緊張したのか、気がついたら、ポンポンと2ストライクに追い込まれていたのは覚えてますね、もう頭の中には「三振したら、どうしよう」とか「ベンチに戻ったら監督にどやされる」とか、そんなことばかり考えてた。無我夢中ですよね。真っすぐだと思うんですけど、バットを振ったら当たって、きれいなライナーがセンターへ抜けたんです。真っ芯でした。

41年前の夏も鮮明に思い返すことができる。両手に残ったインパクトの感触を思い出すように言葉を連ねた。もちろん、当時はその安打が8打席連続安打につながるなど思いもしなかった。しかし、これだけの記憶が残っているのは、特別な思いを胸に臨んだ夏だったからである。

末次は1年夏こそベンチ外だったが、その秋から主に「4番一塁」として活躍した。初めて甲子園の舞台に立ったのは2年春。75年センバツ1回戦の相手は堀越(東京)。「5番一塁」としてスタメン出場し「三振」「遊ゴロ」「中安」「投ゴロ」の4打数1安打。0-2で迎えた5回2死満塁で迎えた第3打席で「中安」を放って打点1を挙げている。

末次 満塁からのセンター前は覚えてますね。チーム唯一の打点だった。最初の三振は緊張してまったく覚えてない。ボールが見えなかった。最後は空振りしての三振。甲子園最初の打席はそんな感じだったんです。

末次の挙げた1点のみでチームは初戦敗退を喫した。勝たないと意味がないと教育された末次も喜べなかった。事実、敗れた日の夜、宿舎ではすでに夏に向けての深夜までの素振りに汗を流した。勝利を義務づけられた強豪のさがだった。

末次 その夜、忘れられない出来事があったんです。長い素振りが終わった後、当時のコーチから「ヒットが1本出て良かったな」と言ってくれたんです。もう、涙が出ましたね。止まらなかった。最高にうれしい思い出です。

入部して以来、厳しく、つらい練習にずっと耐えてきた。勝ちにつながらなかったが、わずか1本の安打で涙が出るほどうれしい感情に包まれることを知った。「もっとヒットが打ちたい」。2年夏、3年春と甲子園出場を逃した。高校最後の夏。再び帰ってくることができた聖地で、ヒットショーが幕を開けた。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)