幼少の星野は運動会が大好きだった。徒競走に自信があったからではない。お弁当の時間が待ち遠しくて仕方がなかった。「みんなが日の丸弁当の中で、オレはお重なんだ。それも3段重ねのな。裕福じゃない。貧しい…まぁ、中の下くらいだったんだけど」。身の丈を越えた豪華弁当には訳があった。

1947年(昭22)1月22日生まれ。3カ月前に父仙蔵が病死していた。三菱重工水島の工場長を務めていた縁で母敏子が工場の寮母となり、姉2人とともに寮で育った。仙蔵は優秀な技術者であると同時に、部下の気持ちをくみ取る優しさも備えていた。

仙蔵を特に慕っていた寮のコックがいた。洋食のシェフあがりで腕が立ち、当時は珍しかったマヨネーズを、卵から自作したりしていた。星野を「仙坊」と呼んでかわいがり、必ず「今日は何が食いたい?」と聞かれた。「オムライス、チキンライスと言えば、何でも作ってくれた」。三菱重工水島は社会人野球の名門で、このコックは野球が大好きだった。「仙坊はうんと栄養をつけなくてはいけない。野球選手になったときのために」と、肉料理を毎日出してくれた。

運動会となれば「仙坊のことだから。ガキ大将なんだから」とお重を渡された。体が大きく気前のいい星野の周りには、自然に人が集まってきた。「おい、食え」。かつお節や昆布のおにぎり。食べたこともないハイカラな洋食。みんながおいしそうに食べる姿を見るのが好きだった。

小学4年のとき、姉が高校野球を見に連れて行ってくれた。大声で応援して思った。「生意気なんだけどね。そこで夢を持った。まず高校で甲子園に行って、6大学に入って。阪神が大好きだったから阪神に行って、コーチをやって。そんな想像をしたんだ」。家に戻ると、敏子にはこう言われた。「野球って面白いよ。チームプレーだから。きっと楽しいはずだよ」。

生活費を切り崩し、1000円のグラブを買ってくれた。「悪ガキたち」を集めて本格的に野球を始めた。打っても投げても上手で「『天才なんじゃないか』と思ったよ」。水島中学に進むと「ボコ~ンと鼻をへし折られた」。それでも着実に力を付け、3年のころには県内で知られる存在になった。

大会になると、必ず1人の男が星野の投球を見に来るようになっていた。3年の冬、黒縁の眼鏡をかけた短髪の紳士が寮にやってきた。(敬称略=つづく)【宮下敬至】

(2017年11月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)