全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「シリーズ2 監督」のスタートです。第1弾は、箕島(和歌山)を率いた尾藤公さんです。11年に68歳で亡くなった尾藤さんの笑顔は「尾藤スマイル」と呼ばれました。しかし、若きころの監督・尾藤は鬼でもありました。名勝負、名シーンを演じてきた尾藤さんの物語を、全5回でお送りします。

  ◇ ◇

サイレンの音がまたこの日も、校門の前で止まった。和歌山・有田市の県立箕島高校に横付けされた救急車。収穫期になればだいだい色の実がたわわに実るみかん山が裏手にそびえ、日差しをはじきながら有田川が学校前を流れる。そんな温暖な地だが、野球部のグラウンドでは、この日も壮絶な練習が行われていた。

尾藤の指導下で81年まで高校3年間を過ごし、中京大卒業後からコーチを務め、95年秋に恩師から監督職を引き継いだ松下博紀は語る。

松下 僕ら(にとって尾藤さん)は鬼のイメージでしたが、先輩に言わせればお前らはだるい(甘い)もんや、と。一番きつかったのは東尾(修)さんらのころ。監督になられた最初の方です。救急車を呼ぶのは日常茶飯事。選手がノックで倒れてです。消防署にも知り合いがおるもんやから、またかという感じなんやけど、いいかげん怒られたと。いいかげんにせえと。

そんな猛練習もあり、箕島は、後に西武で活躍する東尾らを擁して68年センバツで甲子園初出場。2年後の70年センバツでは、南海、近鉄でプレーした島本講平を軸に初優勝。77年にも春Vを果たし、さらに79年には春夏連覇を成し遂げた。松下は09年センバツで母校を18年ぶりの甲子園に導き、退任後は県高野連理事長を経て、今は母校の教頭を務める。箕島、そして尾藤の変遷を見てきた松下が、東尾、島本らの時代と比べ「僕らのころの監督は、普通の人間くらいやったんでしょうね」と笑う。

甲子園では「尾藤スマイル」で知られた名将は、箕島のグラウンドでは鬼の猛将だった。妥協を許さないノックと鉄拳。その厳しさは、練習試合でも猛将同士の対戦となれば「負けてられへん」とばかりにビンタの雨が降ったほどだった。

ただ、尾藤と選手の間にわだかまりが残ることはなかったという。尾藤と監督-部長の名コンビで79年甲子園春夏連覇を経験し、和歌山県高野連元会長でもある田井伸幸は「ビンタ食らった選手があとあと根に持って寄りつけないということは、ちょっと思い出せんねえ」と言う。尾藤の鉄拳には意味があったのだと、松下は力を込めた。

松下 殴ってくれるということはもう1回やらしてくれることや、という暗黙の了解が毎日ありました。今のはお前やったら捕れるやろ? 監督の表情見たらそう思っていることが分かるんです。そうなれば怒られに行かんとあかんのです。でもそのことで、自分ができなくてミスしたことを自分で取り返すすべを教えてくれていた。今となってはものすごく人間形成に役立っているって思います。

怒りの裏側を理解する。そんな相互理解を可能にしたのも、尾藤のなせる業だった。尾藤の怒りには、理由があった。就任1年目の66年6月のこと。時計を忘れたことに気付いて引き返したグラウンドで尾藤は衝撃的な光景を目の当たりにする。3年生が1年生部員を並ばせ、バットで尻を殴る光景だった。上級生が下級生を殴ることを、尾藤は許すことができなかった。

頭に血が上ったまま、バットを持った3年生の胸ぐらをつかみ、こぶしを頭上に振り上げた。そのとき、相手と目が合った。その瞬間、血が引いていくのを尾藤は感じた。

尾藤 ここでこいつを殴ったら、気持ちのままに下級生を殴ろうとした3年と同じやないか。そう思ったんです。もしあのとき、怒りに任せてそいつを殴っていたら、自分は選手に尊敬してもらえる指導者にはなれなかったと思う。

生前の尾藤が残した言葉だ。相手への思いがそこになければ、鉄拳はただの暴力。それに気付いた尾藤は、選手全員をグラウンドに座らせた。そこから始まったミーティングは、のちの監督・尾藤の幹を成すものになった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

◆尾藤公(びとう・ただし)1942年(昭17)10月23日、和歌山県有田市生まれ。箕島から近大。66年に箕島監督に就任した。68年春に甲子園に初出場し4強。72年に退任も74年秋に復帰。春3度、夏1度甲子園で優勝の強豪に育てた。79年は史上3校目の春夏連覇を達成。夏の3回戦では星稜(石川)と延長18回の名勝負を演じた。95年8月に退任。11年3月にぼうこう移行上皮がんのため68歳で死去。

(2018年1月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)