松浦宏明さん(51)とは、東京・中野にある「東京コミュニティスクール」で会った。松浦さんは昨年9月から、ここで教員を務めている。


東京コミュニティスクールで生徒と触れ合う松浦氏(中央)
東京コミュニティスクールで生徒と触れ合う松浦氏(中央)

 日本ハムで活躍し、1988年(昭63)には15勝を挙げて最多勝も獲得した。チームメートの西崎幸広投手、西武渡辺久信投手とタイトルを分け合った。

 投手としては珍しい背番号「0」をつけ、「ゼロ戦のマツ」というニックネームで呼ばれていた。私には、この呼び名が強く記憶に残っている。

 東京コミュニティスクールは小学生と幼児を対象にした全日制のマイクロ・スクールで、独自の教育方針が広く支持されている。学校教育法に定められた小学校ではないが、地元の小学校と連携して卒業証明書を発行してもらうなどの方法をとる。


 松浦さん(以下、敬称略) 私は体育と算数を教えています。算数は子供の頃、苦手だったんですけどね。また勉強しなおしました。


 取材は授業が終わった直後の午後3時半に始めた。生徒たちが使う机と椅子を借りた。まだ残っていた生徒が、松浦さんを「まっつん」と呼んで集まってくる。


 「まっつん、何してるの?」

 「今日は取材でね。日刊スポーツ新聞社の記者さんが来ているんだよ」

 「きしゃって電車のことだよね」

 「そのきしゃじゃないよ。文章を書く人だよ」


 子供に囲まれた中での取材になった。私がメモするノートをみんなで見つめている。取材時は急いで書くため、世界中で私しか判読できない文字になる。小学生に見られ、恥ずかしい思いがした。

 会話が途切れたとき、4年生の元気な4人組が「まっつんは、本当は海賊になりたいんだよ」と教えてくれた。

 子供たちの笑顔に囲まれ、何とも楽しい取材になった。


 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 松浦さんは千葉・船橋市の出身で、船橋法典高の2年から投手になった。それまでは外野手で、打者としても4番を担った。高校通算46本塁打を放っている。

 高校3年の夏は千葉大会の準々決勝で敗れ、甲子園には進めなかった。だが、ドラフト外で日本ハムに入ることになった。


 松浦 自分ではあまり調子がよくない試合だったけど、スカウトの方が見てくれてね。当時は6位指名までだから、ドラフト外という形になりました。


1984年12月、日本ハム入団発表。左から西村基史、松浦宏明、山陰徳法、河野博文、高田繁監督、丑山努、森範行、早川和夫
1984年12月、日本ハム入団発表。左から西村基史、松浦宏明、山陰徳法、河野博文、高田繁監督、丑山努、森範行、早川和夫

 入団前は順位など気にしていなかった。だが、自主トレからキャンプに入ると、期待度の低さが分かった。ドラフト1位は駒大から入団した河野博文投手だった。


 松浦 記者の数が違いましたね。河野さんの周りはたくさんいるけど、こっちはいないでしょう。「ああ、期待されていないんだな」と分かった。それで発奮しました。いいボールを投げればいいんだってシンプルに考えました。


 スカウトや2軍の首脳陣から「最初は投手で、ダメなら外野手に転向しよう」と言われた。


 松浦 これにカチンときた。「最初は…」って何だよって。これで奮起しました。


 発奮、奮起という言葉が続いた。だが、人によっては気後れの要因にもなる状況ではないだろうか。


 松浦 そうですね。私は負けず嫌いだった。何ごとも奮起に変えられたところはあったと思います。


 1年目は当然ながら2軍スタートだった。ある日、1軍の練習で打撃投手を務めることになった。そこで意外な指示を受けた。


 松浦 普通は1軍の打者に気持ちよく打たせる役目でしょう。でも、2軍の投手コーチだった金山さんが「打たせなくていい。抑えて来い!」と言った。その通りに真剣に抑えにいきました。


 打撃投手が終わると、当時の高田繁監督と大石(清)投手コーチに「ブルペンへ来い」と指示された。投球練習を見てもらい「明日から1軍に来い」と言われた。この年は1軍で8試合を投げた。


 松浦 当時は1軍の最低保証年俸に達していないから、1日、1軍に在籍しているだけで差額分の給料が入る。これはやる気が出たな。


 ところが2年目は1試合しか登板していない。プロ初勝利は挙げたものの、チャンスは少なかった。


 松浦 夏前だったかな。門限破りが見つかって処分を受けたんですよ。同期入団の先輩が歌舞伎町にはまっていて、いつも一緒に連れて行かれました。丸刈りになって、2軍でバット引きとかやっていた。何カ月も試合で使ってもらえなかった。


 これも発奮材料にした。限りある登板機会を生かし、イースタン・リーグで11勝を挙げて最多勝を獲得した。3年目は48試合に登板し8勝5敗8セーブという数字を残した。

 当初は敗戦処理ながら、松浦さんが登板すると打線が逆転して勝ち星がついた。当時は「逆転のマツ」と呼ばれていた。

 この年のオフに背番号「0」に変えた。入団時から3年間つけていた番号は「59」だった。


 松浦 入団するときに希望を聞かれ、「長嶋さんの「3」か、王さんの「1」がつく番号がいい」と言った。でも59って、どちらもついてないでしょう。1軍で結果も出始めたので、背番号の変更を希望しました。


 その時も3と1に絡む番号は空いていなかった。ちょうど空いた「0」に目をつけた。


 松浦 投手には縁起が悪い番号と言われてました。「0勝」では勝てないとね。でも、私は投手にいい数字だと思ったんです。スコアボードに「0」を並べる。防御率0・00。フォアボールも0でヒットも0だと。それで選びました。


 背番号を変えた88年に最多勝をマークするなど、「ゼロ戦のマツ」として日本ハムの投手陣を支えた。


1988年7月2日の阪急戦で登板した日本ハムの松浦宏明
1988年7月2日の阪急戦で登板した日本ハムの松浦宏明

 ところがプロ10年目を終えた94年オフ、再び背番号を変えた。大島康徳選手が引退し「11」が空き番号になった。入団時から希望だった「1」が並ぶ番号に飛び付いた。

 しかし、この背番号は4カ月ほどしかつけられなかった。6月20日に岡本透投手との交換トレードで横浜(現DeNA)に移籍が決まった。


 松浦 ちょっと後悔もあるな。変えてすぐにトレードだからね。「0」で定着していたから迷ったんですけど、ちょうど11年目で「11」もいいかなと。そういう絡みもありました。まあ、でも日本ハムの11といえば、後にダルビッシュや大谷がつけた番号ですからね。短い期間でも「11」を背負えてよかったと思いますよ。


 横浜では9試合に登板して白星も挙げたが、そのオフに戦力外通告を受けた。近藤昭仁監督が解任されるなど、チームの変革期に巻き込まれた形だった。わずか4カ月の在籍だった。

 中日の秋季キャンプに参加して、入団テストを受けた。1995年11月17日の日刊スポーツには「不合格」という記事が掲載されている。


 松浦 いや、5日間プレーして合格って言われたんですよ。「このままキャンプに残るように」と。ダメならロッテに行く予定だったけど、そちらは断って残った。ところが後で「打撃投手としての合格」と言われた。これで心が折れた感じです。打撃投手は断って、ロッテには春季キャンプに誘ってもらったけど、それも断りました。「もう、いいか」と思いました。


 心の準備も何もなかった。翌年は仕事をせずに過ごした。


 松浦 1年間やりたいことを模索しようと、自分で期間を決めた。やりたいことをピックアップしながら過ごしました。


 「ゼロ戦のマツ」が、まさに0からのスタートを余儀なくされた。(つづく)【飯島智則】