矢野捕手は背番号「22」をつけることができていた-。シーズンオフにお楽しみいただいた編集委員・高原寿夫の木曜企画「こんなん知ってますか!?」。ラストは1日から初めて指揮官としてのキャンプに臨む矢野燿大監督の「背番号秘話」です。選手の代名詞でもある背番号、そこにかけた矢野監督の思いです-。

1日から監督として初のキャンプに臨む矢野。背中にはコーチ時代からつける「88」がある。矢野にとってプロでつける背番号はこれが4個目だ。

東北福祉大から90年のドラフト2位で中日に入団した際は「2」だった。正捕手を期待されていた。しかし思うような活躍はできず、95年のドラフト1位で熊本工から入団してきた荒木雅博に「2」を譲り「38」になった。

そして97年オフにトレードで阪神に移籍。新天地での背番号は「39」となった。39番になった経緯について矢野はこんな話をした。

矢野 中日で38番だったので阪神ではそれよりも上に行きたいという思いで39番にした。それに39番は自分の中では誰かの番号というイメージはなかった。39番といえば矢野だと、自分の番号にしようと思って選ぶことにした。

このとき、矢野にはある番号を背負えるチャンスがあった。「22」が空いていた。

阪神の背番号22。球団史上唯一の日本一に輝いた85年にそれをつけていたのは木戸克彦。記憶に残る名捕手だ。若い人なら現在、背負う藤川球児を思い出すかもしれない。しかし50歳になった矢野前後の世代からすれば、やはり、22番は田淵幸一だった。

事実、田淵が西武へ移籍した後、法大からドラフト1位で入団してきた木戸がつけるまで22番には4シーズンの空白があった。それだけ大きな番号だった。その「22」をつけるチャンスが中日から移籍してきたばかりの矢野にはあった。だが矢野は「22」ではなく「39」を選んだ。

矢野 22番を選ばせてもらえるという話はあった。でもやはり22番と言えば田淵さんのイメージ。有名な選手のイメージがある番号より新たなものを植え付けたい。そんな思いがあったので。

のちにチームを支える捕手となり、コーチ、そして今回、監督に。独自のものを追求する思いが、移籍組ながら阪神に欠かせない人物となる力になったのかもしれない。

このオフは背番号について考えることが多かった。オリックスからFA移籍の西勇輝が「16」。エンゼルスから来たばかりのマルテが「31」。虎党には言うまでもない岡田彰布と掛布雅之がつけた栄光の番号を新加入選手が背負う。さらに中日から移籍してきたガルシアが闘将・星野仙一の「77」という。

名選手の背番号を背負い、それに負けない活躍を誓うか。固定のイメージがない番号を自分のものにするべく力を出すか。思いはそれぞれ。今年も戦いが始まる。(敬称略)