小久保裕紀監督が率い、第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に臨む侍ジャパン。今からちょうど140年前に米国人と試合をした侍たちはどんなメンバーだったのか? ローマ字の名前から、調査が進められた。(敬称略)

(2016年5月13日付紙面から)

1871年(明4)の石藤豊太(野球殿堂博物館提供)
1871年(明4)の石藤豊太(野球殿堂博物館提供)

 1876年(明9)の日米野球の記録が掲載されたニューヨーク・クリッパー紙のコピー。野球殿堂博物館の新(あたらし)美和子学芸員(当時)は、そこに掲載されている選手たちが実在の人物だったのか、どんな人物だったのか、調査を始めた。野球伝来に貢献したホーレス・ウィルソンや外交上、日本にとってなくてはならない人にまでなったヘンリー・W・デニソン。ヘボン式ローマ字を開発したヘボンの息子の名もあった。

 では、対戦した東京開成学校の学生は、どのような人々だったのだろうか? 新が調査のために手に入れたのは「カレンダー」と呼ばれる明治9年の東京開成学校の年報で、ローマ字と漢字の在学者名簿が含まれていた。新はその中から、新聞紙面にローマ字で書かれていた名前と合う選手を探していった。

 最初は「1番一塁」の欄にある「Ishido」。これはすぐに火薬研究の権威だった石藤豊太だと分かった。教え子たちが喜寿の祝いに編さんした「石藤先生」という本にも、野球をしたことが書かれている。「6番三塁」の本山正久についても文献に名前があった。当時のメンバーの中では傑出した体格の持ち主で、パワーもずばぬけた選手だったという。新の調査で、名前が判明した明治9年の侍ジャパンは以下のようになる。


 1(一)石藤豊太

 2(左)野本彦一

 3(遊)Hwogama

 4(中)笠原格

 5(右)田上省三

 6(三)本山正久

 7(捕)青木元五郎

 8(投)久米祐吉

 9(二)佐々木忠次郎


 「5番右翼」の田上は大学を卒業後、裁判官として活躍する。「7番捕手」の青木は工学博士号を取り、土木技師となった。「9番二塁」の佐々木の経歴は面白い。この翌年に赴任したモース博士の門下に入り、大森貝塚の調査、発掘に携わった。モース博士の論文和訳を手伝うなど尽力。その後、動物学の権威となった。さすがに後の東大で学んだ俊英たち。その後の輝かしい業績が文献などに残る。

 1936年(昭11)11月12日の東京朝日新聞11面に、佐々木は日本最古の名選手として取り上げられた。80歳になっても健康だったそうで、明治9年当時を振り返り、一塁手か二塁手での出場が多く「投手や捕手はめんどくさくて嫌いだった」と話している。ベースを離れたウィルソンを追いかけ、追いついて突き倒してアウトにしたのが「面白かった」という。

 「4番中堅」の笠原については諸説ある。ローマ字表記は「Kusahorra」で、「明治維新と日米野球史」の著者、島田明は日下部辨二郎ではないかと推測している。名字だけのローマ字表記では、すべてを把握することが難しかった。新も学生名簿を穴のあくほど見たが、分からなかった。調査は行き詰まった。そして「3番遊撃」の「Hwogama」。最大の謎とぶつかった。(つづく)【竹内智信】