すべての道は1勝目から始まった。大阪桐蔭が4年ぶりに優勝。西谷浩一監督(52)は春夏合わせ甲子園の優勝回数を8とし、歴代2位の通算61勝。指揮官としての初勝利は05年夏1回戦の春日部共栄(埼玉)戦。当時主将だった小林晃徳さん(34)が祝福のメッセージを寄せた。【聞き手=酒井俊作】

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西谷先生、優勝おめでとうございます。今年のチームは、投打のバランスがすごく良くて安定した勝ち方をしていますよね。私が大阪桐蔭でプレーしたのは17年前。これほどにも早く、通算勝利数2位までいくとは思いませんでした。驚きがとても大きいです。

私の結婚式のとき、電報をいただきました。「甲子園に初めて連れて行ってもらったキャプテン。とても印象に残っています」。光栄でした。1年生のとき、左膝を痛めて、2月に手術をしました。復帰したのが7月。もう夏の予選が始まっていました。新チームになって主将になった理由が「甲子園にかける思いが強い」ということでした。

3年の夏、それまで2年連続で甲子園に出ていたのはPL学園でした。先生には「PLに勝たないと甲子園に行けないよ」と言われ続けた。バント、サインプレー、エンドランやスクイズなど細かい野球を練習に入れていました。まだ「日本一」と言っていなかったと思います。「何年も連続で大阪から甲子園に出られるチームにしていこう」と言われたのを覚えてます。

2年の夏はPLに決勝の引き分け再試合で負けた。忘れたらアカンと思い、寮の食堂で映像を何度も見ました。3年の時はPLに勝って甲子園に出られた。予選で一番しんどかったです。あのころ、先生が合言葉のように言っていました。「どっしり、ゆっくりいこう」。初勝利だった05年夏の春日部共栄戦もそう。試合前に「バックスクリーンが大きい球場は気負ってしまう。投手も近く感じる。のまれるとフライアウトが多くなる。どっしり構えて、前の肩を落とすイメージでゴロを転がしていこう」。最短で球をとらえる。全員安打で9点を奪い、競り勝てました。

先生には主将として、多くを学ばせていただきました。野球ノートに「チームの状態をこうしたいと思います」と書いたことがありました。すると先生は「思います」の上に線を引いて「思います、じゃダメだ。中途半端な覚悟でやるな」と書き加えていました。日常生活も厳しかった。風呂場のスリッパを並べているか、脱衣場で服をたたんで入れているか。当時、うるさいなと感じたこともありましたが、いま思えば、社会で生きていく上で大切なことを教えていただいた。

先生は勝利への執念もすごかった。「どれだけ点差が開いていても1点差だと思え」と常におっしゃっていた。私も大目玉を食らったことがあります。3年夏の大阪大会。コールド勝ちした試合でした。スキがあったのでしょう。大振りになって飛球を打ち上げ、たらたら走った。試合後「お前がそんな態度で野球して、そんなたらたら走るチームはアカン」と。気の緩んだプレーをしかる。それは甲子園でも関係なかった。

先生は24時間、野球のことを考えておられる。4時間目の社会科の授業はユニホーム姿で教壇に立っていました。「終わったらすぐバスに乗って学校を出発するぞ」。他の部の生徒もいましたが当たり前の光景でした。授業中、生徒に考えさせる時間があると待っている間、紙に何か書いている。一番前の席だったので見えたのですが、その日の練習内容を書いてました。

智弁和歌山の高嶋仁先生の通算勝利数最多記録を抜いて1位になってもらいたいですが、何よりお願いしたいことがあります。西谷先生は野球の技術を教えると同時に、人間形成の指導をされておられます。そういう卒業生をこれからも、もっともっと多く出していただきたいと思っています。

○…小林さんは昨年12月から三重・四日市市内で「あかほり接骨院」を営む。大阪桐蔭から近大でプレーした後、一般企業に就職。だが「ずっとやってきた野球に関わる仕事を」と一念発起し、柔道整復師の資格を取得した。西谷監督には年明けに報告。「頑張れよ」と激励されたという。野球に特化したプログラムも用意する。「ケガの少ないパフォーマンスを発揮できる練習方法も伝えたい」。小学生以上の野球に取り組む人たちをサポートする。