北北海道決勝は旭川大高が旭川東を7-1で下し、19年以来3年ぶり10度目の甲子園出場を決めた。

初回1死で、主将の2番広川稜太遊撃手(3年)が先制の左越え本塁打。この回3点を挙げると8回2死二塁から5連打で4点を加え突き放した。投げては先発の池田翔哉投手(3年)が9回1失点完投した。来年度から学校名を「旭川志峰」に変更する方向で「旭川大高」として臨む最後の夏、王座に返り咲いた。南北海道は、25日に札幌円山で準決勝2試合が行われる。

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旭川大高が最後まで流儀を貫いた。9回2死一塁、最後の打者を中飛に打ち取ると、送球が二塁の吉田に戻るまで我慢。しっかりボールが送球されるのを見届け、一斉に歓声を上げた。広川は「外野フライは内野に返球されるまで終わりじゃない。101回目も同じだった。それが伝統」。3年前は右飛が内野手に返球されるまで待った。勝つだけじゃない。自分たちの“作法”で喜びに浸った。

どん底からはい上がった。昨夏は北大会準決勝で帯広大谷に敗退。直後、グラウンドの一塁側ベンチのホワイトボードに、当時のスコアが張り出された。広川は初回の自身の送球ミスが先制点につながっていた。「取れるゴロをしっかりアウトにしないと流れが悪くなるのを知った。必死でやってきた」。雪辱をかけた秋は地区2回戦で旭川実に敗退。センバツ切符を逃し「クラークの特集番組を見て悔しさしかなかった」。春は地区代表決定戦の旭川明成戦で、延長10回に内野のミスから傷口を広げ勝ち越された。甲子園9度出場の有力校が、2季連続地区敗退の屈辱を味わった。

旭川大高らしい、安定した投手力と堅守には程遠い状況。端場監督は「秋と春に道大会に出ていたら、このままでいいと思ってしまったかも知れない。出られなかったから、ここまで成長できたのかもしれない」。春の地区敗退後、広川は「主将として、もっと厳しく言っていかないと、このまま終わると思った」。準決勝で2失点完投、この日は3安打3打点の山保は「(背番号1の)池田頼みでは勝てない。自分がしっかりしないといけないと思った」と、春から投手と野手を兼務。選手1人1人がプラスアルファを求め、少しずつチーム力が上がった。

走者つき守備ノックでは小さなミスを互いに厳しく指摘し合い、練習の雰囲気から変わっていった。端場監督は「負けて何かに取り組み、うまくいったりダメだったり。いろいろなことを繰り返せたのが、夏につながったのかもしれない」。反省の積み重ねが堅実さを取り戻す土台になった。

現校名では最後の夏。4歳時に旭川大高の選手が指導する「永(なが)ちび」で野球を始めた広川は「この校名、ユニホームにあこがれてここに入った。甲子園でも校歌を歌いたい」。29年ぶりの聖地1勝で、夢をかなえる。【永野高輔】

◆旭川大高 1898年(明31)創立の私立校。特別進学コース、スポーツ教育コースなどがあり、生徒数517人。野球部は64年創部で、部員は75人。甲子園は夏9度出場で80年の3回戦進出が最高。主な卒業生は元近鉄の鈴木貴久(故人)、陸上男子400メートルリレーの北京五輪銀メダリスト高平慎士、柔道女子78キロ超級のリオ五輪銅メダリスト山部佳苗。所在地は旭川市永山7条16丁目3の16。山内亮史校長。