球春真っ盛りの沖縄で、彼らが向かったのは真っ黒な壕(ごう)の中だった-。那覇でバッテリー合宿を行っている東大野球部が23日、戦争と平和について学んだ。東大野球部OBで、戦時下の沖縄で県知事を務め県民保護に死力を尽くした島田叡(あきら)氏ゆかりの場所を巡った。

    ◇    ◇    ◇

目を開けても、何も見えない。東大野球部の面々が完全なる闇に足を踏み入れた。ガイドの柴田一郎さん(75)の声だけが優しく響いた。「この3畳ほどの空間が島田知事の部屋でした。勝ち戦を求める日本軍と住民保護の間でせめぎ合いがあったでしょう。葛藤はおくびにも出さず、周りを気遣っていた。ランプの明かりで読書や、お茶もたてていたそうです」。

部員たちは話を聞きながら、74年前に思いをはせた。首里城から南に1キロほど、識名霊園の地下にある「県庁・警察部壕」。自然の壕を4、5カ月かけ拡張した。1945年(昭20)4月25日、島田知事は、ともに県民保護に尽力した荒井退造警察部長らと壕に入った。前年10月の米軍の空襲で県庁は焼失。職員とともに県庁機能を移した。艦砲射撃の嵐の中、行政の陣頭指揮を執った。壕には避難してきた住民もいた。

島田叡を知る人は少ないだろう。神戸二中、三高、東京帝大(現在の東大)を経て内務省入省。学生時代は左打ちの名外野手だった。沖縄戦開戦の2カ月前、県知事の打診を受けた。戦火が迫る沖縄の知事など、なり手はいない。前任者は公務名目で沖縄を去った。断ることもできたが引き受けた。

死を覚悟していたと言われる。荒井部長とともに、県民の疎開や食糧確保に奔走。多くの住民の命を救った。「県庁・警察部壕」の後も壕を転々。最後は同年6月26日、本島南端、摩文仁の壕を荒井部長とともに出たきり、消息を絶つ。遺体は見つかっていない。

東大野球部は、なぜ島田知事の功績を学ぶのか。

5年前、浜田監督が講演で沖縄を来訪。地理・歴史の教諭で現在は久米島高野球部監督の上原正昭氏(50)と出会い、島田知事のことを聞いた。「学生たちにも同じ話をしてくれますか?」。それが始まりだった。15年2月、バッテリー組による沖縄キャンプがスタート。温暖な地で投手陣を仕上げる狙いもあるが、一番は島田知事を学ぶこと。毎年必ず、ゆかりの場所を巡る。浜田監督に代わり引率する中西助監督が説明する。

「戦争があって今がある。今の日本に生まれ野球をする上でも、歴史をどうそしゃくするか。実際に現地に来て、沖縄の人と交流して考えて欲しい。彼ら(部員)は将来、官僚や政治の世界に進む可能性がある。(思想が)右だとか、左だとか、そういう話ではありません。国で働こうかという彼らが『沖縄』のことを忘れてはいけない」

戦争が終わり、51年には元県庁職員らの手により、島田知事、荒井部長ら殉職した458人の県庁職員を合祀(ごうし)した「島守の塔」が、摩文仁の丘に建てられた。部員たちは「東京大学」と印字された野球ボールをささげ、手を合わせた。今回初めて参加した大音周平捕手(1年)は「予習はしてきましたが、実際に壕に入ると何て過酷なんだとリアルに伝わってきました。島田さんと同じ状況になった時、何ができるんだろう」と考え込んだ。

きっかけを作った上原氏は呼び掛けた。「沖縄の人は島田さんを誇りに思っている。その先輩がいて、今、君たちは野球をしている。東京に戻ったら、島田さんの話を他の人にもして欲しい」。【古川真弥】

 

■東大卒の日本ハム宮台先輩を応援

平和授業を終えた部員たちは、午後は広島-日本ハム戦(コザしんきんスタジアム)を観戦した。東大の先輩である日本ハム宮台が8回に登板。1回を1安打無失点に抑えた。エース小林大雅投手(3年)は「大学でも、すごくストイックな方だった。また東京ドームなどで応援したい」。高校(湘南)の後輩でもある大久保英貴投手(1年)も「真っすぐの精度がすごい」と刺激を受けた。宮台は「頑張って欲しい」と後輩たちにエールを送った。

 

■東大野球部員が沖縄の高校生の先生役

約2週間の合宿中、部員たちは沖縄の高校生とも交流している。練習場と宿泊施設を提供してくれている首里や、那覇国際で交流会を実施。放課後には手分けして数学、国語、英語のセンター試験講座を行う。塾講師のバイトもしている渋谷恒平捕手(2年)は「やりがい、あります」。受講者は女子生徒も多いが、まずは東大野球部を知ってもらうことで、入部希望者を発掘する狙いがある。