元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため、神奈川県の病院で死去した。80歳だった。数年前にパーキンソン病と診断され、自宅などで闘病生活を送っていた。先月、誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。最後は家族にみとられ、眠るように逝った。

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きっぷが良く、現役時代から強気で鳴らした近藤氏が静かに逝った。長男の光博氏は「子供や孫に囲まれ、最後は眠るように亡くなりました」と話した。ボクシング・元ヘビー級世界王者のムハマド・アリと同じパーキンソン病を患い、自宅や関連施設などで闘病を続けていた。今年2月、神奈川県内の病院に入院。そのまま帰らぬ人となった。

高松一、早大から大洋に入団。同郷同学の先輩でもある故三原脩監督のもとでプロ1年目からレギュラーを獲得した。大毎(現ロッテ)との日本シリーズでは、2本の決勝打ですべて1点差の4連勝に貢献し、チームは前年の最下位から日本一。近藤氏はわずか3安打ながらMVPに輝いた。

新人の日本シリーズMVPは近藤氏のほか、68年高田(巨人)、75年山口(阪急)だけ。3安打以下のMVPも96年ニール(オリックス)18年甲斐(ソフトバンク)しかいない。打率は高くないものの、ここ一番の勝負強さから「超二流」と呼ばれた。

62年から65年には4年連続でセ最多犠打を記録。65年には当時のプロ野球記録となる41犠打をマークした。74年に現役を引退。大洋でコーチを務め、その後、ヤクルト、西武で働き、リーグ優勝や日本一に貢献。89年から3年間は巨人でヘッドコーチを務めた。

93年に古巣横浜の監督に就任。石井琢朗、鈴木尚典ら若手を起用し、のちのマシンガン打線の中軸を担う選手たちに道を開いた。95年に退団後、97年にはロッテの監督に就任。福浦和也を抜てきするなど、ここでも若手育成に励む。しかし、2年目の98年、6月13日から7月8日にかけて、1分けを挟んで18連敗を喫し(現在もプロ野球記録)、そのシーズン限りで退団した。その際に「監督は孤独な職業だが、何度もやりたい職業。次は弱いチームじゃなくて、強いチームでね」とユーモアもあった。

06年には原巨人で再びヘッドコーチを務めるも体調不良で1年限りで退任。翌年はフロントに入り、08年以降は評論家活動を行っていた。長い指導経験をもとに切れ味のある評論で知られ、テレビではTBS系列で鋭い舌鋒(ぜっぽう)を披露した。ゴルフの腕前は球界屈指。気さくな人柄で、周りに人が集まる親分肌でもあった。