プロ野球南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執った野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。

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03年1月。野村監督は調布市内のシダックス・グラウンドで、たき火に当たりながら選手を見つめていた。午前9時に球場入りすると、まずは朝食をとった。コンビニ袋から取り出したのは、ざるそばと温泉卵。「オレは365日同じもの食べても飽きないんだよ」と、卵にそばをからませながらおいしそうにすすっていた。不健康かと思いきや、独自の健康法を持ち、「カメ理論」を提唱。長寿のシンボル亀のように極力動かないほうが長生きするという考えを実践し、いつもじっと座ってボヤいていた。大腸内視鏡は年2回。自ら納得した健康法は徹底的に続けていた。

ある時、「今度、オレ日本経済新聞に出るんだよ」と人ごとのように言った。「スポーツ面ですか?」と聞くと、「私の履歴書とかっていうやつ。よく知らないんだけど、人気のコーナーなんだって」。ビジネスマンなら一度は耳にする偉人が、自ら半生を語る人気コラム「私の履歴書」。野球以外に興味のない野村監督らしかった。その時、報道陣にも母子家庭で育ち極貧の中で野球を続けさせてもらったこと、母親を喜ばせたい一心でテスト生からはい上がったこと、幼少期は巨人ファンだったが、球界を盛り上げるためにアンチ巨人を演じて「月見草」と言い続けたことなど、赤裸々に語ってくれた。

またある時。雑談の中で、監督の著書「女房はドーベルマン」のタイトルを「女房はブルドッグ」と言い間違ってしまった。激怒されるかと思いきや「サッチーはブルドッグみたいにかわいくないよ。キャンキャンって鳴かないよ。ドーベルマンだからな。ウーッてうなってるよ」と、笑ってフォローしてくれた。家族の話をするときはいつもうれしそうだった。克則氏についても「あいつは反面教師だな。オレと違って、どこに行っても評判がいいんだよ」と目尻を下げた。野村監督が愛情と野球理論を注ぎ込んだ克則氏は、プロ野球の指導者として活躍している。「野村イズム」はこれからも受け継がれていく。(03~05年担当、鳥谷越直子)