日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

    ◇    ◇    ◇  

1975年(昭50)の阪急は、松下電器(現パナソニック)からドラフト1位の山口高志がフル回転する。春先は覚えたてのスライダーを織り交ぜた投球で勝てない日々が続いた。

「福本(豊)さんが『土井(正博=太平洋・クラウン)さんが、山口は真っすぐが一番打たれへんって言うとったぞ』と教えられたんです。それから勝てるようになったんです」

山口は「(公式戦)12勝13敗ですから、あまり勝ったとは言えません」と謙遜した。今ならエース級の扱いだろう。その豪腕は広島との日本シリーズで6試合中5試合に登板し、完投勝利と2セーブでMVPに輝いた。

山田久志、足立光宏の2枚看板に若手が融合、セ・リーグを代表する山本浩二、衣笠祥雄らを擁し、古葉竹識が率いた広島を撃破。創設40年目で球団初の日本一を成し遂げた。

「上さんの中では自分が出たチーム(広島)に勝つことは、すごく意味があったんじゃないでしょうかね」

この年から日本一3連覇した背景にはいくつかの要因が重なった。ドラフトでは阪急より指名順位が先の近鉄が山口指名を回避。渉外も担当した矢形勝洋が獲得した新外国人マルカーノ、ウイリアムスが大当たり。フロントのチーム戦略も現場を後押しする。

さらに75年からパ・リーグが導入した「DH制」も追い風になった。第1次黄金期を築いた西本時代の「4番」に座った長池徳二の起用も成功する。

前後期を完全優勝の76年は、26勝の山田久志が最多勝と勝率1位で、加藤秀司は2年連続打点王、福本豊は7年連続の盗塁王で投打に圧倒した。日本シリーズは西本幸雄が5度戦ってはね返された巨人だった。

「当時の阪急の査定法は投げないと給料が上がらなかった。よく先輩と話したのは、上さんが歩いた後にはピッチャーが残っていかないと。この投手で勝てると思ったらどんどんつぎ込んだ。勝つための最善を追いかけたらそういう使い方になったんじゃないですかね」

先発、リリーフと35試合に登板した山口は、日本シリーズでも馬車馬のように投げまくった。川上哲治のV9時代が終わった巨人は長嶋茂雄が率いる新時代を迎えていた。

その巨人に3連勝した後、3連敗を喫した。しかも山口が先発した第6戦は7-0の大量リードをひっくり返された。巨人の逆王手。山口は今だから言える舞台裏を明かした。「ヤマさん(山田)と2人でもう次の試合は投げられへんと言い合ったのを覚えています」。追い込まれた上田は開き直った。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)