大山が育った茨城・下妻市はスイカや白菜など農作物の生産が盛んだ。実家の周りにも畑や水田が広がる。北東には茨城県のシンボルの1つ筑波山がきれいに見える。大山の野球の原点は、ここにある。野球を始めたのは小学1年生。近所にあった軟式の「宗道ニューモンキーズ」で白球を追った。監督は下妻市役所の職員でもある都井誠さんが務めていた。

このチームの雰囲気は他の少年野球チームとは少し違った。都井さんが決めたルールがあった。「野球を楽しむ。全員野球」-。厳しい練習よりも、みんなで仲良く野球を楽しむ。型にはめる指導ではなく、子どもたちは好きなようにバットを振った。週末は近くのグラウンドを借りて練習したが、平日は都井さんの家に集まる。練習もそこそこに、監督も参加して鬼ごっこが始まる。休憩時間にはスイカの種を飛ばしあった。

ユニホームは強豪校の常総学院を模したものだったが、チームは当然、弱かった。6年生でキャプテンを務めた大山は毎試合のようにホームランを放つが、試合には勝てなかった。チームメートで現在は地元でパティシエとして働く松尾真弥さん(22)は「体は小さかったんですけど、すごく飛ばす。練習はすごくしていた。1人だけ手がマメだらけなんです」と懐かしそうに話す。

今年7月30日、都井さんは胃がんのため64歳で亡くなった。余命半年と告げられてから2年10カ月も病と闘った。励みは大山の活躍だった。大山が大学日本代表に選ばれた。しかも4番。病床でわが事のように喜んだ。言葉を発することは出来なかったが、大山の話題を耳にすると笑顔になったという。大山は「ほんとに優しい方で野球の楽しさを教えてもらった」と、感謝を忘れない。

都井さんは大山の話題になると決まってこんなことを言っていた。「あの子はね。プロ野球選手になって家族に大きなお家を買ってあげたいっていうのが口癖だったんだよ」。決して華やかな野球人生ではなかったが、実力で夢だったプロ野球の扉を開いた。スケールの大きな打撃と柔和な笑顔は大山のトレードマーク。その源流をたどれば、都井さんの教えに行き着く。(終わり)