わずか1年でも、元阪神セシル・フィルダー氏(51)は日本で暮らし、甲子園でプレーした記憶を今も鮮明に覚えている。90年に大リーグに復帰していきなり2年連続の本塁打王。スーパースターに成長したが、選手としての原点は日本時代にあるとまでいう。そんな元大砲が日本で感じ、得たものとは? 「あの助っ人たちの今」第2回は、フィルダー氏が指導者としての夢を語ります。

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阪神OBの血は今も騒ぐようだ。フィルダー氏の真剣なまなざしは、決して社交辞令に聞こえなかった。

「阪神は、どうしてオレを(臨時コーチに)呼んでくれないんだ? ランディ・バースはよく呼ばれているんだって? 彼と面識はないが、偉大なガイジン選手だったのは知っている。オレも呼んでほしいね。オレは、自分の野球人生はあの甲子園から始まったと思っている。あれが選手としての第1歩のようなものだったし、日本で結果を出せたことが、大きな自信になった」

当時のライバル巨人には、斎藤雅樹、桑田真澄という2枚看板がいた。「巨人の投手はレベルが高かった。広島の大野豊も忘れられない。日本にはあらゆるタイプの投手がいて、彼らと対戦できたことが、その後の成功につながったと思っている」と懐かしがった。

当時のチームメートには感謝を伝えた。「和田、岡田、田尾、真弓。みんないいヤツらだったし、クレイジーだった(笑い)」と元同僚たちの名前がスラスラと出てきた。「田尾は本当にナイスガイで、プロフェッショナルな打者だった。英語がそんなに話せなくても、一生懸命にオレとコミュニケーションを取ろうとしてくれて、うれしかったね。何人かとは本当に親しい間柄になって、自宅に招待して米国式のディナーを振る舞ったこともあった。阪神時代のことは決して忘れないよ」。

同氏は家族とともに神戸に住み、長男プリンス(31=現レンジャーズ一塁手)を地元の幼稚園に通わせた。そして、甲子園にも毎日のようにプリンスを連れて行った。「日本の選手は球場に子どもを連れていくようなことはしないけど、オレは、父親がどんなことをしているか子どもに見せるべき、という主義なんだ。オレが成績を残していたからか、球団も容認してくれたことには感謝している。当時のコーチが、プリンスに打撃練習をさせてくれたこともあったしね」。

レ軍で主砲を務めるプリンスは今季、通算300号を達成。親子でのアベック300号は、ボンズ親子に続く史上2組目の快挙だった。今は父と同じく、遠征先にも常に2人の息子たちを連れ、球場で野球に触れさせる。甲子園で育まれた親子の絆をしっかりと、受け継いでいる。

あらためてフィルダー氏は再来日の思いを口にした。「甲子園に戻りたい。安芸キャンプにも。できたらいつか日本で、コーチをやりたいくらいだ。阪神の若手を指導してみたい」。日本を離れて26年。波乱に富んだ人生を経て今、「第2のホーム」に望郷の念を募らせている。【水次祥子】