大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。野茂英雄、イチローらを育て上げ、いまだに語り継がれる「10・19」の名勝負を演じた名将。阪神・淡路大震災が起きた95年は「がんばろうKOBE」を旗印に戦った。“仰木マジック”を支えたコーチとも、時に対立しながら頂点に立った。

    ◇    ◇    ◇

近鉄、オリックスで優勝を成し遂げ、名監督にのし上がった仰木のかたわらに、常に付き添った人物がいた。球界屈指の名伯楽と認められる“ふとしさん”こと中西太だ。

仰木にとっては、西鉄ライオンズで2つ年上の先輩。初冬の昼下がり、かつて“怪童”と称された中西と向き合った。

「わたしは仰木君にとって兄貴分のような存在だった。彼が入団してきたときはかわいいボンボンの印象を受けた。人なつっこくて、だれからも好かれましたね」

西鉄の主砲として、首位打者2度、本塁打王5度、打点王3度のタイトルを獲得。仰木は年下の二塁手で、球界を代表するスターの中西とは“格”が違いすぎた。

1962年(昭37)に中西が兼任監督になった当時、仰木は選手の立場だった。67年限りで現役引退すると、そのまま翌68年からコーチとして中西に仕えた。

ただ仰木が87年オフにコーチから近鉄監督に昇格すると、中西をヘッドコーチで起用。オリックスでも同じ関係で、主従逆転というべきか、仰木は常に中西を頼りにした。

2人が共通して強く影響を受けたのが、西鉄監督だった三原脩。主力投手を下手投げに改造、奇抜な選手起用、ささやき戦術、「二刀流」の先駆けでもあった。

1958年(昭33)、西鉄が巨人に3連敗を喫してからの4連勝は、日本シリーズ史上最も劇的なドラマと言い伝えられる。その後、大洋(現DeNA)を率いた三原は60年、「万年最下位」だったチームを日本一に導く。

「情」と「理」を使い分けた教えが、人の心をつかみ、その気にさせた。データを駆使し、配置転換など適材適所にコマを動かした采配は“三原魔術”とネーミングされた。

三原の娘婿にあたる中西は「仰木君は三原に鍛えられた」という見方を示した。

「オヤジは『人をみて法を説け』といったが、選手の長所を伸ばした。うちのキーは二塁のポジション。仰木君をボンボンといったが負けん気は強かったし、性格もみていたのだろう。1年目から二塁で使ったし、何かと指示をしていたからね。わたしはオヤジの近くにいたから、わたしのしゃべることはオヤジが言っていることと思っていたのかもしれない」

西鉄が東京遠征した際、選手は成城にあった三原の自宅で食事をごちそうになるなど通い詰めた。三原の長女で、中西夫人の敏子が「うちに一番よくいらしたのは仰木さんでした」と明かした。

中西、豊田、稲尾らではなく、仰木だったのは意外だった。三原が近鉄監督だった70年はコーチとして招請されている。師匠のもとで学んだ仰木マジックの源流は「三原魔術」だった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

連載「監督」まとめはこちら>>