「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」で各賞を総なめにした、ノンフィクション作家の鈴木忠平氏。長くプロ野球の番記者を務めた日刊スポーツ時代より、印象に残っている情景を書き下ろしていただきました。
その場にいるかのような描写。主人公の陰影。客観視した自分自身の機微。読み切りのエッセー、だからこその魅力が詰まっています。「随想録 鈴木忠平」をお楽しみください。
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2004年のシーズン開幕戦、私はまだ陽が高いうちにナゴヤドームの駐車場に立っていた。ナイターのプレーボールまでにはまだ随分と時間があったが、ひとつ気がかりなことがあった。担当している中日ドラゴンズの開幕投手がはっきりしていなかったのだ。
当時はまだ先発投手が公表されていなかったが、開幕ゲームだけは何らかの形で公然となるのが慣例だった。だが、この年はチーム情報が閉ざされ、新聞各紙の予想も野口茂樹か、川上憲伸か、左右のエースで割れていた。
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2006年10月4日、広島戦。立浪和義は9回裏、ランナー2人を置いた場面で代打に立つと、サヨナラ打を放った。そして試合後のお立ち台で目に光るものを浮かべた――。
「耐えて勝つ」
立浪が帽子のひさしに、そう記していたのはいつ頃だったか。朧げな記憶をたどると、この2006年シーズン半ばあたりからだったような気がする。18歳で入団してからレギュラーを張り続けてきた。いつしかミスター・ドラゴンズと呼ばれるようになった。そんな立浪がこの年の途中からスターティングメンバーを外れ、ベンチを温めるようになった。「代打の切り札」。聞こえはいいが、プロにとっては土俵際を意味している。守備範囲の衰えにより聖域を剥奪された立浪はそこで生きるしかなくなった。
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2006年10月10日、中日ドラゴンズは優勝のかかったゲームを戦っていた。勝てばゴールだが、すぐ背後には猛追する2位の阪神タイガースが迫っていた。負けられない東京ドームでの巨人戦は規定によるラストイニング、延長12回に入っていた。得点できなければ勝ちはない。チームはさらに追い込まれることになる。
福留孝介はこの土壇場のイニングが始まるとき、ある予感を抱いたという。
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岩瀬仁紀が現役を引退する。そのニュースを目にしたのは2018年の初秋のことだった。通算1002試合に登板して407セーブ。どんな投手よりも多くの試合に投げ、誰よりもウイニングボールを投じてきたストッパーも44歳を迎えようとしていた。そういう意味では驚くことではなかった。ただ、ひとつだけ胸に引っかかることがあった。
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東日本大震災が起こった2011年シーズン、セ・リーグのペナントレースを制したのは中日ドラゴンズだった。監督である落合博満の退任が決まった直後から驚異的なペースで勝ち続け、一時は10ゲーム以上も離されていたヤクルトスワローズを逆転した。担当記者だった私は、実力が拮抗したプロの世界でこんなことが起こるのかと、劇的なチームの変化に刮目した。
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2015年9月23日、シーズン中の遠征先ホテルで阪神のゼネラルマネージャー中村勝広が他界した。タイガースの担当記者だった4年間の中で最も忘れられない出来事だ。
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