力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

 ◇   ◇   ◇

「今日からお前はマスクをかぶるんだ」。1962年(昭37)、米ロサンゼルス地区に遠征していたディック・リチャード・ベイヤーは、同地区のプロモーター、ジュール・ストロングホーンにサンディエゴの控室で声をかけられた。当時のことをザ・デストロイヤー(61)は、「ほんとに突然だった。マスクはどうするんだと聞くと、バックステージ(舞台裏)に用意してあるから、という具合にね」と言う。世界をまたにかけた名レスラーの誕生はあまりにも唐突だった。

54年にデストロイヤーは、ニューヨーク州バファローのプロモーター、エルドン・ジョージに勧められてプロレスの道に入ったが、アマレス仕込みの卓越した技術も次第に飽きられ、プロとしてはどん底の生活をしていた時期だった。ストロングホーンが用意してくれたマスクをかぶって、マスクマンとして再デビューを飾ると、うわさがうわさを呼び、その生活は一変した。当時の米国には町ごとにプロモーターが存在し、引っ張りだこの存在となった。一時人気が低迷したが、62年7月にフレッド・ブラッシーからマスクマンとして初めてWWA認定世界王座を奪うと、デストロイヤーの名前は世界中に知れ渡ることになった。

大祖父が南ドイツから米国に移住。祖父デューイ・ビクターの代から、ドイツ系移民の多いニューヨーク州のバファローに定着した。高校を1年延長し奨学金を得てニューヨーク州のシラキュース大に進むと、レスリングとフットボールに熱中した。レスリングでは全米学生選手権を制し、フットボールでは同校がオレンジボウル優勝時に全米学生オールスターにも選ばれたほどの活躍だった。

大学院にも進み、フットボールでプロになることも考えたが、173センチという体格を考え、同校のコーチを選んだ。だが、コーチの収入だけでは生活も苦しく、レスリングの経験を生かしたてっとり早い副業としてプロレスの道に入ったのだ。

力道山からブラッシーと渡っていたWWA王座を奪ったデストロイヤーは、戦いの場を日本に求めた。63年5月に初来日。デストロイヤーは「それまでアメリカをメーンに戦ってきたが、日本に行ったことが、私のターニングポイントになった」というほど後に大きな意味を持つものになった。 【川副宏芳】