プロ8戦目で世界王座をつかむものの、その後は網膜裂孔(れっこう)、網膜剝離(はくり)に見舞われるなどブランク、再起を繰り返しながら思いを貫いてきました。43歳、今なお「職業・ボクサー」としてトレーニングを続けています。波瀾(はらん)万丈の半生を「浪速のジョー」自らが振り返ります。

 

人に「お前の職業は?」と聞かれたら、ボクは「プロボクサー」と答える。5月に44歳になるけど、ボクは現役のプロボクサーや。

体を休める日と決めている木、日曜日以外は毎朝5キロのロードワークは欠かさない。月、火、水、金の夕方は、自宅の大阪・守口市から車で約1時間かけて、堺市のジムに行く。大阪帝拳ジム時代の先輩・春木会長の「堺東ミツキジム」で2時間くらい、シャドーボクシングから始めて、ボクサーとしてやるべきことをやっている。朝のロードワークをしない木曜日の夕方は、大阪市東淀川区の「ヨシヤマジム」にお世話になり体を動かす。土曜日は、兵庫・明石市にある「エビス フォルティカルジム」に車で往復3時間以上かけて通っている。後輩の戎岡彰(元フェザー級日本ランカー)会長のジム。この3ジムでお世話になっていることになる。本当にありがたい。

ざっと、これが1週間の生活。職業・ボクサーなのでボクにとっては当たり前の日常です。

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辰吉の最後の試合は、09年3月8日までさかのぼる。タイで同国スーパーバンタム級1位の19歳の新鋭サーカイ・ジョッキージムとの10回戦だった。辰吉は3回にダウンを奪われ、7回TKO負けを喫した。世界戦以外の試合で敗れたのは、プロ28戦目にして初めてのことだった。日本ボクシングコミッション(JBC)はボクサーの定年を37歳に定めている。辰吉は元世界王者なのでその限りではないが、ラスト・ファイトから5年がその特例期限とされている。03年9月26日にフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と戦っているが、08年5月15日に38歳を迎えた辰吉は、最後の試合から5年たった08年9月26日にJBC認定のもとで戦える期限が過ぎたことになる。故にタイでの試合を選択し、08年10月に復帰第1戦、第2戦が09年3月だった。

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タイのあの試合から5年たつけど、負けた直後にも「ワシはまだ終わっとらん」と言った。現役ボクサーにこだわり続けている。なんでか、いうたら自分で決めたことやから。こだわりといえば53・5キロがリミットのバンタム級にも、本当に思い入れがある。

なぜならそれはまず、父ちゃん(粂二=くめじ、享年52)がボクの名前をつける際、漫画の「あしたのジョー」から1字もらったらしいけど、その主人公の矢吹丈がバンタム級やったことがひとつ。それにアマチュア時代に社会人選手権で優勝したのもバンタム級であることもそうや。だから今でもウエートは58キロから59キロを保って、いつでもバンタムウエートに落とせる準備をしている。世界戦でリミットオーバーする選手なんか、考えられへん。

そんなわけで、食事も1日1食。ジムワークが終わってから、自宅でボクが作ることが多い。嫁はん(るみ=48)と長男寿希也(22)と次男寿以輝(17)の分を多めに作って、ボクも食べる。若い時は1日2食取っていたけど、23歳の頃から1日1食にしている。もう胃が小さくなっているのもあるけど、減量の苦しさを考えて我慢もする。ボクサーは節制と練習あるのみ。

岡山から16歳で大阪に出てきて28年。山あり谷ありだったけどずっとボクシングひと筋でやってきた。これが、辰吉丈一郎なんやとしか言いようがない。

◆辰吉丈一郎(たつよし・じょういちろう)1970年(昭45)5月14日、岡山・倉敷市生まれ。中学卒業後の86年5月に大阪帝拳ジムに入門、当初アマチュアで全日本王者になった後、89年9月プロデビュー。91年9月、当時国内最短記録の8戦目で、WBC世界バンタム級王座に就く。その後、網膜裂孔や網膜剝離を患い、ブランクと再起を繰り返す。97年、シリモンコンを破り3度目の王座に就くが、翌年ウィラポンに敗れ陥落。99年に再戦したがTKO負けし引退を示唆も3年後に再起。紆余(うよ)曲折を経て現在に至る。戦績は28戦20勝(14KO)7敗1分け。るみ夫人と2男。164センチ。

「負けたまま家に帰るな」父の言葉でいじめられっ子卒業 /辰吉連載2>>