ボクは1970年(昭45)5月15日、岡山県倉敷市児島で生まれた。生まれた頃はなかったけど、瀬戸大橋の岡山県側の出発点あたりの生まれ。父ちゃんが23歳の時の子で1人っ子。名前は漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈から「丈」をもらって「丈一郎」とつけてくれた。父ちゃんは粂二(くめじ)という自分の名前がいやで、息子にはカッコええ名前をつけたかったらしい。

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辰吉は89年9月のプロデビューの頃から、矢吹丈のイメージと丈一郎という名前から「浪速のジョー」と言われていた。赤井英和が「浪速のロッキー」として人気を博し、関西のボクシング界は「浪速の-」を冠名につけることがよくあった。「浪速のタイソン」もいた。

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母親はボクが1歳になるか、ならん時にはいなかった。名前も顔も知らない。7カ月になる頃には歩いたらしい。ボクシングには強靱(きょうじん)な足腰が必要だけど、ボクは細くみえるけど下半身は強い。それを授けてくれた両親には感謝している。そんな訳で父1人子1人の生活で、保育園には1歳すぎから預けられた。好き嫌いも激しくて、何事にも遠慮がち。おまけに、言葉も3歳くらいまであまりしゃべらなかった。父ちゃんも無口で2人暮らしやから、言葉も遅くなる。だから、ボクは「いじめられっ子」やった。信じられへんかもしれんけど、ホンマやから仕方ない。

その「いじめられっ子」から卒業したのは5歳の頃。父ちゃんのある言葉からやった。「勝つ勝たんとかの問題やない。とにかく負けを認めるな。負けたまま家に帰るな」。この言葉が今も響いてるんや。「負けたままでは帰れん」-。

ある時、ボクは気をつけをして泣きながら殴られ続けていた。すると相手があきれたのか、殴るのをやめた。そのとき「今や」と、意を決して殴り返したら、勝ってしまった。

それから、ボクと周りの形勢は一気に逆転した。いつまでも“へたれ”のままやったら、ボクの人生どうなっていたか。ほんま父ちゃんのアドバイスには感謝している。倉敷市立赤崎小学校、同味野中学校、そして今までとケンカで負けたことはない。11歳で酒もタバコもバイクも覚えた。縄跳びと水泳も得意で、勉強も集中すればできる科目もあったけど、続かんかった。父ちゃんが「何でも1番がええ」言うから、ケツから1番を狙ったけどそれもなかなか難しい。自慢は小、中学校の9年間、1度も休まず皆勤やったことかな。でも、遅刻や強制的早退が多くて“賞”がもらえんかった。

父ちゃんにはもちろん一番感謝しているけど、中学校の担任やった依田進吾先生にも恩がある。A組からH組がある中で、3年間H組で、ずっと依田先生。当時20代の体育の先生しかボクを指導できんかったのかな。依田先生は、厳しいけど俺の話を聞いてくれて、面倒も見てくれた。今でも、岡山に帰ればお会いする。その依田先生が、中学卒業が迫る頃、俺に話しかけてきた。

「態度がでかい」入門初日、竹刀で25発殴られた /辰吉連載3>>