1986年(昭61)の3月やった。中学卒業が迫り、誰もが進路を決める。ほとんどが高校に進学する時代だったけど、ボクにそんな気持ちはさらさらない。でも、自分の将来を意識しだした時に、依田先生が「辰吉、ボクシングやってみたらどうや」と言うてくれた。

依田先生が言ったにせよ、ボクは大概「ええわ」と言い返して終わりになるけど「ボクシング」にだけはひっかかるものがあった。父ちゃんは「岡山のおばあちゃん」と叫んだ藤猛さんの頃からのボクシング好きで、ボクもレナード対ハーンズの世界統一戦をテレビで見た覚えもあり、ボクシングは他のスポーツより興味はあった。

父ちゃんにも相談したら「気になっているなら、やるこっちゃ。もうお前の道はお前の道や」と言われて、踏ん切りがついた。それでも卒業してから葛藤が2カ月続いた。周りは「辰吉は東京か大阪でボクシングやるらしい」とウワサするし、後には引けん状況になった5月のある日、依田先生は、東京に比べると岡山から近い大阪の大阪帝拳ジムに連絡を取って、仕事先まで探してくれた。世界王者の渡辺二郎さんが所属するジムやったから、なんとなく安心感があった。

「父ちゃん、出世するけん」。16歳になったばかりの86年5月25日、ボクはこう言い残して岡山を後にした。父ちゃんは「おお、行ってこいや」と6000円もくれた。ボクにはびっくりするほどの大金やったけど、新幹線で新大阪までの切符を買ったら、500円しか残らんかった。これがホンマの「片道切符」や。新大阪駅に着いてから、仕事先の「京橋かまぼこ」に行くまでがまた大変やったけど、とにかく働く場所には行き着いた。

大阪に出てきた目的は、もちろんボクシングをすることで、翌日の5月26日に大阪帝拳ジムの門をたたいた。その日に西原健司トレーナーに「態度がでかい」と竹刀で25発殴られた。毎日殴られたけど、イチからボクシング教えてくれて、しつけてくれた西原先生が大好きやった。

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辰吉はジム入門から9カ月目の87年2月にアマデビューする。その年の9月、17歳4カ月で全日本社会人選手権のバンタム級で優勝。ここまで11戦11勝(11KO、RSC)。大阪帝拳ジムの吉井清会長(故人)は、このセンスあふれる若者に、翌年に迫ったソウル五輪の金メダリスト輩出の夢を見た。しかし、同年11月のソウル五輪代表選考会を兼ねた全日本アマチュア選手権で、辰吉は風邪をひき、膝を痛めて、16戦目で初めての挫折を味わった。

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負けは惨めやった。失意のドン底で岡山に帰ったけど、1カ月ほどで大阪に舞い戻った。自分で勝手に飛び出したので、ジムには戻りづらい。行く当てもないから、公園で寝泊まりしていた。冬の公園は寒いで。メシは食いたいけど、金はない。一番手っ取り早いのは、自動販売機や。釣り銭口を探ると硬貨がベターと張り付いている場合がある。何十台と渡り歩くと、うまくいけば1000円くらいになるときもあった。

ボクはプータローやったけど、そんな状況でもプロボクサーになるために大阪に出てきたことは忘れなかった。ある日、嫁になる4歳年上のるみと出会う。ボクにとっては救いの神やった。

「7戦目で世界戦」青写真崩れた悔しい引き分け /辰吉連載4>>