元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが死去したことが1日、分かった。79歳だった。

力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。89年には参議選で初当選した。近年は腰の手術に加えて心臓の難病「全身性アミロイドーシス」も患い、入退院を繰り返していた。

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【アントニオ猪木アラカルト】

◆誕生 1943年(昭18)2月20日、神奈川県横浜市鶴見区に、11人兄弟の6男として誕生。本名・猪木寛至。13歳でブラジルへ移住。

◆プロレスデビュー 60年4月に興行でサンパウロを訪れていた力道山にスカウトされ日本プロレス入団。本名の猪木寛至として同年9月30日、台東区体育館での大木金太郎戦でデビュー。その後力道山の付け人を務める。

◆改名 62年11月にアントニオ猪木のリングネームに改名。先輩の豊登が命名。当時活躍したアントニオ・ロッカから取ったと言われている。

◆東京プロレス 66年4月に、日本プロレスから離脱して豊登らとともに東京プロレスを旗揚げ。同年10月12日に旗揚げ戦を実施。

◆1億円挙式 71年11月2日、京王プラザホテルで女優の倍賞美津子と結婚式を挙げた。1300人が招待され、費用は1億円という豪華な式だった。87年に離婚。

◆新日本プロレス 東京プロレスの破産にともない、日本プロレスに復帰したが、団体内での確執などで71年に追放処分を受ける。翌72年1月26日に、新日本プロレスを旗揚げ。ストロング小林、大木金太郎らのビッグネームとの対戦や、WWWF(現WWE)との提携による有名外国人レスラーの参戦により、隆盛を極める。

◆異種格闘技路線 プロレス最強を唱え、ストロングスタイルを掲げる猪木は、自身の最強を証明するため異種格闘技路線へ突き進む。76年2月に、ミュンヘン五輪柔道無差別級金メダリストのウィリアム・ルスカと対戦。同年6月にボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリとの対戦を実現させ、世界にその名をとどろかせた。

◆東京ドーム 89年4月24日、プロレス界初の東京ドーム興行を実現させる。柔道ミュンヘン五輪金メダリストのチョチョシビリと異種格闘技戦を行い、裏投げで左肩を脱臼し、異種格闘技戦で初の黒星を喫した。この大会を皮切りに、新日本プロレスは全国のドーム会場で試合を実施。毎年1月4日の東京ドーム大会は新日本最大のイベントとして定着している。

◆政界進出 89年、スポーツ平和党を結成し参議院議員選挙に当選。史上初のプロレスラー出身の国会議員となる。95年にスキャンダルなどで落選。

◆人質救出 湾岸戦争が差し迫った90年、サダム・フセイン大統領により国外出国禁止とされた在留邦人を、猪木が「スポーツと平和の祭典」をバグダッドで開催することで救出に成功。「スポーツを通じた国際交流」の信念を実践した。また、核兵器開発で世界を敵に回す北朝鮮でも、たびたび「平和の祭典」を開催している。

◆現役引退 98年4月4日、東京ドームでドン・フライ戦を最後に現役を引退。引退後は、UFO、IGF、ISMなど団体を立ち上げ、プロデューサーとして活動。

◆WWE殿堂入り 10年2月にWWEは猪木の殿堂入りを発表。殿堂入り式典では盟友スタン・ハンセンがプレゼンターを務めた。

◆生前葬 17年10月21日、両国国技館でのINOKI ISM2で生前葬を行った。リング上に置かれた棺(ひつぎ)の中から白い球を取りだし、頭上に掲げた際に球の色が赤に変わると猪木は「今、魂が飛んで異空間にいった」。

◆政界引退 13年7月に日本維新の会より参院選に出馬し当選し18年ぶりに政界復帰。その後日本維新の会の分党に伴い「次世代の党」に移籍。さらに「日本を元気にする会」-無所属となり、19年6月に政界引退を表明した。