フジテレビ系トークバラエティー「はやく起きた朝は…」(日曜午前6時30分)は、今年4月に前身から29年目の放送に突入した。プロデューサーを務めるのは、同局「オレたちひょうきん族」の“ひょうきんディレクターズ”の三宅デタガリ恵介としても知られた、三宅恵介エグゼクティブディレクター(73)。テレビ業界歴52年目の三宅さんに、あれこれと聞いててみた。

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1984年(昭59)10月に始まった、小堺一機(66)司会の平日午後1時からのトークバラエティー「ライオンのいただきます」は「ライオンのいただきます2」「ライオンのごきげんよう」へリニューアルしながら、16年3月に終了するまで31年半も続いた。三宅さんは、途中でプロデューサーを兼任しながら、最初から最後まで演出を担当した。

「始まった頃は、小堺さんも28歳ですよね。流れで行くと1980年(昭55)から始まった『THE MANZAI』のブームがあって、それを受けてB&Bとかツービートをレギュラーに使って、正午の生放送の『笑ってる場合ですよ!』が80年の10月から始まった。でも、生放送なんでやっぱり作り込んだ笑いとかができない。じゃあ、作り込んだ笑いをやろうと言って、81年の4月期から半年で特番枠で9本ぐらい作った。そこから『俺たちひょうきん族』が生まれて、たまたま当たったんで、10月からレギュラーになった」

「ひょうきん族」の大ブレークもあって「笑ってる-」は82年10月から、タモリ(76)が司会の「笑っていいとも!」に変わった。

「その後の午後1時からの30分枠で『ライオンの奥様劇場』というドラマ枠があった。ライオンの宣伝部長と、ライオン提供枠の担当で編成部長だった、後にフジテレビの社長になる村上光一さんがあれこれ考えた。村上さんも元々は大将(萩本欽一)の番組担当です。で、村上さんが『“いいとも”の笑いのエネルギーをつなげて、30分のバラエティーができないか』という話になって。じゃあ、いいともの後に、同じ場所で30分間やろうとなって、横澤彪プロデューサーを筆頭に『ひょうきん族』をやっていた僕たちディレクター5人で考えたんです」

新たな番組も、生放送だから作りこんだものは出来ない。それで当時、流行っていたおばさんのパワーを使うことにした。

「いいともでも、有吉佐和子さんとか黒柳徹子さんが『テレホンショッキング』のゲストで来て、40分以上も延々としゃべり続けて、番組ジャックをしたようなことがあってね。で、おばさんを使った番組にしようと。じゃあ、おばさんを相手にするのは若い男がいいだろうと。しかも毎日だから、そんなに忙しくないやつがいいだろうということで、小堺さんにお願いしたんです」

小堺はテレビ朝日の萩本欽一(81)のバラエティー「欽ちゃんのどこまでやるの(欽どこ)」で関根勤(68)とコンビの「欽どこ」の「クロ子とグレ子」でブレークしつつあった。

「それで、小堺さんの師匠の萩本さんにお願いにいったのを、よく覚えてますよ。欽ちゃんのマネジャーだった、今の佐藤企画の佐藤(宏榮)社長が浅井企画にいて、小堺さんにそれを伝えたんだけどね。小堺さんは1回目の収録まで『絶対、これはドッキリだ』と思ってたって言うんですよ」

「笑っていいとも」に続く、東京・新宿のスタジオアルタでの生放送。CM放送中の2分半で番組のタイトルや袖のセットを変えた。

「まあ、それもドキュメントとして、間に合わなきゃ間に合わないでいいからっていうんで始めたんです(笑い)」【小谷野俊哉】(続く)

◆三宅恵介(みやけ・けいすけ) 1949年(昭24)2月5日、東京都生まれ。慶大経済学部卒業後、71年にフジポニー入社。「欽ちゃんのドンとやてみよう!」「笑っていいとも!」「ライオンのいただきます」「タモリ・たけし・さんまBIG3世紀のゴルフ」「あっぱれさんま大先生」「ライオンのごきげんよう」などのディレクターを務める。80年フジテレビに転籍。81~89年の「オレたちひょうきん族」では「ひょうきんディレクターズ」の「三宅デタガリ恵介」としても活躍。90年からクリスマス深夜放送の「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」では、今も演出を務める。04年4月スタートの「はやく起きた朝は…」(日曜午前6時30分)では番組開始からプロデューサー。09年の定年退職後もフジテレビに嘱託のエグゼクティブディレクターとして在籍。千代田企画社長。