6月24日は国民的歌手・美空ひばりさんの命日である。代表曲「りんご追分」にちなみ、この日は「林檎(りんご)忌」と呼ばれる。1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎による呼吸不全のため、52歳という若さで亡くなった。平成元年の死去で「昭和が終わった」と、誰もが思った。

年月は流れ、昨年が三十三回忌だった。この忌で「弔い上げ」(故人が極楽浄土へ旅立ち、祖先になるという考え)の宗旨・宗派が多いため、区切りの法要とされることが多い。コロナ禍だったため、オンライン法要という形で営まれた。東京タワーとひばりさんが生まれた横浜マリンタワーが、ひばりさんのイメージカラーの紫色に特別にライトアップされた。コロナ禍で戦う医療従事者らへの感謝も込められた。

今でも鮮明に思い出す。89年7月22日に、蝉(せみ)時雨の東京・青山葬儀所で営まれたひばりさんの本葬を取材した。途切れることのない4万2000人が列をつくった。祭壇前で歌手仲間がひばりさんの最後のシングルとなった「川の流れのように」を献歌した。ひばりの人生を象徴した名曲の合唱は、感涙のクライマックスだった。

「川の流れのように」(作詞・秋元康、作曲・見岳章、編曲・竜崎孝路)は、1並びの平成元年1月11日に発売された。ひばりさんは「1」が好きだった。昭和天皇が4日前に崩御し年号が変わり、平成最初の発売CDだった。

しかし、本当はポップな「ハハハ」(作詞・秋元康、作曲・高橋研、編曲・若草恵)になるはずだった。男を信じ夢を見た女が、現実を知り自嘲気味に自分を笑うが、「大丈夫よ」と立ち直る、そんな歌だった。

ひばりさんは87年4月に大腿(たい)骨骨頭壊死(えし)などで入院。以後、入退院を繰り返したが、不死鳥のように回復。88年末に、新アルバムが制作されることになった。ひばりさんは「40代以上の方は同時代を歩いてきた。若い子供には『歌のうまいおばさん』でいい。でも長い間歌手をやって来て30代の人々が抜けている。その空洞部分を埋めたいの」と願った。その意向を受け、おニャン子クラブを仕掛けた新進作家・秋元康氏(当時32)が総合プロデューサーに抜てきされた。新アルバム用に「川の流れのように」と「ハハハ」が作られた。

アルバムからシングル曲を選び出す作業は難航しなかった。ひばりさん自身が周囲に「(大ヒット曲の)『真赤な太陽』以来の新鮮さよ」と語るほど、「ハハハ」で納得していたからだ。秋元氏は「人生いろいろあっただろうひばりさんが『ハハハッ』と笑ったら、どんなに勇気づけられるだろう、と思って書いた」と振り返っている。

ところが、12月1日のアルバム発売を直前に控え、ひばりさんが関係者に言った。「ねえ、『川の流れのように』どう思う? 川は一滴の雨水が木の根を伝い、せせらぎになり、小川になり、いろんなものにぶつかり、蛇行して、大きな川に合流し海に注いでいく。まさに人生賛歌よね。シングルはこれでいきたい」。スタッフは当初のコンセプトから外れてしまうと、強く反対した。ひばりさんは「今日だけは私に決めさせて」と1歩も譲らなかった。スタッフは普段と違う強い姿勢に驚き、シングルを変更。アルバムタイトルも「川の流れのように~不死鳥パート2」に決めた。

平成元年1月11日、「川の流れのように」は発売された。それから5カ月後の6月24日、ひばりさんはこの世を去った。後日、秋元氏は「病気に勝つすごい運を持っている人だという感動と、脈々と続くひばりさんの人生を川に例えて作った歌だった。その生き方が勇気を与えてくれると。もし『ハハハ』がラストソングだったら……」と語った。ひばりさんは自分の残された運命を悟っていたのかもしれない。だから「川の流れのように」を選んだのかもしれない。

ひばりさんの誕生日は1937年(昭12)5月29日。今年は生誕85周年になる。ひばりさんが所属した日本コロムビアからは85周年を記念したDVDやCDが発売される。

「川の流れのように」は今でもカラオケの定番曲である。ひばりさんが願った30代を含め、幅広い世代の人々が歌い継いでいる。【笹森文彦】